どうも、小説中毒のひろたつです。
今回の記事は怒りに任せて書くので、もしかしたら読むに耐えないものになるかもしれないが、ぜひともお付き合いいただきたい。言うならば、これは私の魂の叫びなのだ。
驚愕の展開!
まずは今回の主役であるこちらの作品を紹介しよう。
殺人鬼フジコの衝動 (徳間文庫) | ||||
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一家惨殺事件のただひとりの生き残りとして、新たな人生を歩み始めた十歳の少女。だが、彼女の人生は、いつしか狂い始めた。人生は、薔薇色のお菓子のよう…。またひとり、彼女は人を殺す。何が少女を伝説の殺人鬼・フジコにしてしまったのか?あとがきに至るまで、精緻に組み立てられた謎のタペストリ。最後の一行を、読んだとき、あなたは著者が仕掛けたたくらみに、戦慄する!
50万部とは凄まじい売れ行きだ。出版不況と言われるこの時代に非常に珍しい数字だと思う。
ここまで売れたのは、あらゆる書店でこの「最後の一行を、読んだとき、あなたは著者が仕掛けたたくらみに、戦慄する!」という謳い文句を大々的に掲げていたことが大きな要因であろう。また、「殺人鬼フジコ」という凄惨さを想像させるタイトルから興味を引かれたアホな客が手にとってしまったからなのだろう。
そう、どちらも私のことだ。
「驚愕の展開」というのは魅力的な言葉だ。小説を読んでいて、終盤で訪れるあの脳みそが痺れるようなどんでん返し。あの快感を知ってしまうと、「もっと読みたい!」となってしまう。そうやって小説にハマってく人も多い。
なので言ってしまえば、「驚愕の展開中毒患者」みたいなものだ。
この患者は物語に常に驚愕の展開を求める。ちょっとでもそんな触れ込みを見てしまうと、すぐに手にとってしまうのだ。だからこんなにも世の中には「驚愕の展開」だの「ラスト5分」だのという触れ込みに溢れているのだ。私のような読書手練からすると、それらの触れ込みはまるでクスリの売人のように見える。
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のたまうんじゃない
だがまあそれはいい。世の中の皆さんが驚愕の展開を求めるならば、それはクリエイター側が応えるべきだし、業界もそれを大々的に全面に押し出せばその作品は売れることだろう。実際に殺人鬼フジコは売れてしまった。売れれば業界に金が入る。金が入れば新人を育てることができる。新たな才能の発掘も可能になるだろう。
いいんだ。金もうけは悪いことではない。売れるならば「驚愕の展開」と好きなだけ触れ込めばいい。読者の購買意欲を煽ればいい。
だがな殺人鬼フジコ、てめえだけはダメだ。
お前に「驚愕の展開」なんてものはない。ただの誇大広告だ。いや、誇大にもなってないただの嘘だ。
驚愕の展開という帯に釣られ、最後の一文でひっくり返してくれることを期待して、わくわくしながら過ごしたあの3時間あまり。そして拍子抜けにもほどがあるクソの極みというほどのあまりにもくだらない結末。了。
…分かるだろうかこの私の悲しみが?
「は?なにこれ?ドコにキョウガクがアルンですか…?」
驚愕の展開が無かったことに驚愕したのは事実だ。だがそんなメタすぎる驚愕なんてイヤだ。高尚的すぎる。そんなレベルで楽しめるなら、そこらへんにある葉っぱでも千切って「なにこれ?!全然驚愕しない!!やべえ、ぜってぇやべえ!」と叫べることだろう。完全にやべえ。
どんでん返しとただのこじつけの違い
一応フォローしておくと、驚愕の展開っぽいことは確かに書いてある。あくまでも「っぽい」だがな。
だがそれは例えるなら、「アンパンマンの正体は実はバタコさんが操縦しているロボットでしたー。(EDテーマが流れる)」みたいなものだ。こんなことを言われても「は?だから何?」となるだけだろう。こんなのはどんでん返しとは言えない。ただのこじつけだ。
どんでん返しとこじつけの違いは、一点だけだ。それは「説得力」だ。
説得力を持たせるために、作者は脳みその全てを使って、伏線やらダブルミーニングやらを仕掛けるのだ。なんも用意しないで、いきなり全然違う所から結末を持ってきて「これが驚愕の展開よ!」となっても誰も受け取らない。私だったらそいつの手を引っ叩いて、地面に落ちた”驚愕の展開”を踏み潰すことだろう。
なので、『殺人鬼フジコの衝動』はなんら驚く要素がない作品だということだ。あの触れ込みは完全なる嘘である。
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面白いことは認める
貶してばかりでも悪いので、一応良かったところも紹介しておこう。
タイトルにもある通りこの作品は「殺人鬼フジコ」の生き様が事細かに描かれている。それはもう素晴らしいほどの気合の入りようで、作者の高梨幸子もノリノリでこの殺人鬼を描いているのがよく伝わってくる。きっとこの人、性格悪いんだろうなぁ。
凄惨な描写も数多い。苦手な人にはまったく受け付けられないと思うが、そんな人はそもそもこんなタイトルの本を買わないと思うので問題ないだろう。
凄惨なシーンの中でも私は特に、友人の頭の皮を剥ぐ所が大好きだ。フジコが異常すぎて笑ってしまった。
そんな感じで、エンタメとしては非常に優れた作品だし、面白いことは間違いない。ただ私はずっと、作品の伏線やダブルミーニングに気を張っていたので、そこまで物語に入り込むことができなかった。「驚愕の展開」という嘘さえなければ、私はもっと純粋に楽しめたことだと思う。残念だ。
最後に
これは一、本を愛する男としてのお願いなのだが、 ぜひともこの「驚愕の展開」という触れ込みを止めてはもらえないだろうか?あらすじだけならまだいいのだが、(本当はあらすじも作品の面白さを失っているが…)「驚愕の展開」と謳ってしまうと、読みながら「どうせこの後、ひっくり返るんでしょ?」と半信半疑になってしまうのだ。
もっと言うと、「この後、驚かせます」と宣言されているようなものなので、まったく驚けないのだ。不意をつかれるからこそ、「驚愕の展開」に脳みそが痺れるような快感を得られるわけで、事前に分かっていたら効果は半減してしまう。
もし「驚愕の展開」と謳うのであれば、数々の名作たちと同じレベルを保っていなければならない。つまり、「絶対に予想できないレベル」だということだ。
それならば問題ない。むしろ「警戒してたのに、それでも騙された!」と更なる興奮が起こる。だがそんな作品は稀だ。出たとしても5年に一冊ぐらいじゃないだろうか?
「驚愕の展開」は出版社にとっては甘い果実だ。手にしたくなる気持ちも分かる。
だが、安易にそれを謳ってしまうと顧客の満足度は著しく下がってしまうのだ。
出版業界の金もうけを優先するか、顧客満足を優先するか。この二択は非常に難しいと思う。私だって大人なのでそれは分かる。だが、小遣いの殆どを本に費やしている私としては、もっと素晴らしい読書体験をしたいと思ってしまうのだ。
以上。
殺人鬼フジコの衝動 (徳間文庫) | ||||
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