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映画『国宝』を観た。

 

映画『国宝』を観た。

映画から出られない。そんな作品だった。

 

観終わったあと、

街中を歩いている間も、

家に帰ってから晩御飯を食べている間も、

現実感がなかった。

ふわふわと足元が覚束なくて、周囲を見回しても薄皮が張ったようにボンヤリとしていた。

 

さっきまでスクリーンで対峙していた人生に、感情に、覚悟に、息遣いに、そして舞台という魔物に完全に取り込まれてしまい、自分の存在が希薄になったような感覚だった。
それは翌日の仕事をしている間もそうで、業務に忙殺されながらも頭の片隅には喜久雄たちの狂気や歌舞伎の魔力がずっと居座っていた。

静かに、でも熱く、私はずっと興奮していたのだった。

心底思った、映画館で観て良かったと。3時間真剣に作品と向かい合って良かったと。
真剣に向き合えば向き合うほど、色んなものをいくらでも与えてくれる作品だった。

 

 

ちゃんと歌舞伎に食らう

 

前評判で凄いとは聞いていたけど、ここまで自分がのめり込めるとは意外だった。

私は読書にはそれなりの見識はあるが、こと芸術には疎い。

さらに舞台芸術である歌舞伎は「何言ってるのか分かんないから興味ない」という程度の理解しか持っていなかった。

だから『国宝』も歌舞伎役者のドラマ部分を楽しめればいいか、ぐらいに思っていた。才能を追い求めて苦労する生き様に感動するんだろうなーとか、ドロドロの歌舞伎界の裏側が凄いんだろうなとか、その程度に予想していた。

 

全然違った。ちゃんと、真正面から、歌舞伎で食らわされた。

 

確かにセリフは難しい。昔の言い回しやそもそも歌舞伎特有の節が付いて、言ってることはあまり分からない。でも食らいついているとちょっと分かる。どんどん分かってくる。

分からなかったとしても、役者の演技から、その空気から、表情から伝わってくる。

もしかしたら勘違いだったかもしれない。全然見当違いの受け取り方をしていたかもしれない。

しかし映画を観ていた私は、演目から伝わってくるものに完全に心を奪われていた。

理解していなかったとしても関係ないと言えるほどに心が動いていた。

 

 

黒川想矢の引力

 

普段役者の演技にどうこうとか気にするタイプではないのだが、それでも『国宝』の役者たちの怪しい輝きに満ちた演技には魅了されてしまった。

まず喜久雄の子供時代を演じていた黒川想矢。なんだあれ。のっけから放つ空気に持っていかれてしまった。異常な存在感。立ち振る舞い。生き物としての濃度が高い。いや、むしろ少し現実感の薄い存在だとさえ感じた。

これが才能のなせるわざなのか、それとも映画のマジックによるものなのか判断できないのだが、3時間という長丁場を出だしから引き込む最高の立役者だったと思う。

彼によって「この映画は絶対にやばいぞ」という確信に近い予感が生まれていた。

 

 

吉沢亮と横浜流星

 

私はこれまで観てきた映画の中で『国宝』が一番良かったと言えるほど、強烈な体験をさせてもらった。もしこれが人生最後の映画だとしても後悔しないほどに満足できた作品だった。

その満足はやはり主演の吉沢亮と横浜流星のおかげだ。

画面を通して二人の"本当"が流れ込んでくるようだった。

映像から二人の生半可ではない覚悟と努力が質量を持って感じられて、それが画面に集中させる原動力になっていたし、映画体験を本物にする最大の理由になっていたと思う。

あまり大げさな褒め方をすると引かれてしまうかもしれないから控えたいのだけど、これ以上の演技に出会うことって、私の人生で今後ないんじゃないだろうか。主演として完璧な役割を全うしていた二人に最大の賛辞を送りたい。

 

 

謎の涙。感動ってこれか

 

さきほども書いた通り私は歌舞伎をまったく知らない。連獅子で長い髪を振り回すことぐらいしか知らなかった。どんな話があるかも知らなかった。

そんな私が歌舞伎シーンで何度も泣いてしまった。

泣けるシーンだからというわけではなく、もっと理由の無い根源的な涙だったように思う。

だって私自身なんで涙が出てるのかよく分からないのだ。とにかく画面が伝わってくるものに気圧されて、心が堪らなく動いてしまい、泣けるシーンでもないのに涙が出てきてしまうのだ。

それで妙に納得してしまった。感動って、まさに「感情」が「動く」から感動なのだと。感情自体の種類は関係ない。だから強烈な演技と才能を目にした私は涙してしまったのだ。

 

才能は"怖い"

未見の方には注意を挟むが多少中身に触れる感想になる。

 

この物語には大きく2つのテーマが貫かれている。


才能である。

 

 

まずこの才能についての話をしたい。

 

創作物において才能を扱ったものは多い。天才性によって物語が転んでいくのはみんなが好きなパターンのひとつだと思う。

『国宝』という物語において、才能が開花する瞬間。これが非常に肝になっている。

原作は上下巻で800ページ超の大長編である。3時間映画とはいえこれを完全に再現するのは不可能である。

そこで映画では人間ドラマの部分を最小限にそぎ落としている。その代わり映画の強みである"画"に極端に特化させることにした。

 

喜久雄という才能が幼少期から輝いていたこと。


運命の歯車によって喜久雄が才能をさらに開花させること。

さらには喜久雄の影になったことによって、執念で才能を爆発させる半弥。

 

それらが俳優たちの演技ひとつで表現されている。観客に納得させるレベルでだ。実際、私はスクリーンの中に確実に歌舞伎の才能を見たし、感じてしまった。天才を目撃した。

 

創作物において才能を表す方法って、実は結構難しくて「誰か苦戦してる問題を簡単にこなす」とか「強いと思われてたやつよりも強い」みたいな、比較をすることで天才性を表すことが多い。

しかし『国宝』は真正面からぶつけてくる。これが才能だぞ、と突きつけて納得させる。

凄まじい才能を目の前にしたとき、感動や興奮よりも先に、畏怖の念が起きることを私は初めて知った。

屋上での狂い舞のシーンとか、美しくて、圧倒的で、心に冷たい手を差し込まれたような怖気が走ると同時に、ひれ伏したくなる衝動に襲われてしまった。画面を食い入るように見るって、あれのことだったんだ。

 

youtu.be

 

 

映画館で体験する価値

この作品は役者の本気を見せることで観客に強烈な映画体験をさせる。

スクリーンいっぱいに映し出される喜久雄の迫真の演技。

命を削りながら演じる半弥。

本気をそのままぶつけてくるがゆえに、人によってはストレスを感じすぎてしまうかもしれない。

でもその重圧こそがこの作品の骨になっている。

 

歌舞伎の舞台に立ち続けるものには、常軌を逸した努力と高みを目指す覚悟が必要とされる。それを観客が追体験することで"国宝"という人外の世界に到達する感覚の片鱗が味わえる。

逃げ場のない映画館という場所だからこそ、歌舞伎にある意味で囚われてしまった役者たちの感覚により近づけるのではないか。

もしこれを家でくつろぎながら観たらどうだろうか。

たぶん画面の圧が強すぎてスマホに目を落としてしまう気がする。

 

冒頭でも書いたが、良くも悪くも真剣に観た分だけ返ってくるものがある作品だと思う。

 

若干のネタバレ&勝手な考察

 

的外れな意見かもしれないけど、私なりの妄想じみた考察を書いておく。

 

ここにはストーリーの具体的な展開を書くので、ぜひ未見の方はこれ以下は読まないでほしい

 

~~~~

 

さっきも書いたが『国宝』は才能と血の物語である。

才能については、つらつらと書いたのでいいとしよう。

もうひとつの"血"についてである。

 

このテーマについて考えると、喜久雄が父親を殺されたあの日、なぜ"あの景色"が脳裏に刻まれたのか。そして最後、なぜ"あの景色"を見ることができたのか。作品における最大の謎が解けるのではないかと思った。私になりの答えを書きたい。

 

皆さんも御存知の通り歌舞伎という世界は世襲制で、喜久雄のような部外者(しかもヤクザの息子)が入り込む余地はない。

なので歌舞伎を題材にしている時点で、そこは血のルールによって支配された世界になるのだ。

才能ではなく血。芸において才能よりも血が優先される世界。というか血を持つことが才能とされる世界である。

喜久雄は父親を惨殺され、母は原爆症で亡くなりと、天涯孤独の身である。血の繋がりを持たない喜久雄が歌舞伎の世界で異物となるのは当然のことだったと言えるし、大舞台に慄き、花井の血を「飲みたい」と願うのもまた自然な心の動きだろう。

 

しかしそこに才能と血を分ける決断をした男がいた。

渡辺謙演じる花井半次郎である。

 

歌舞伎における才能を冷徹に見極め、己の息子よりも喜久雄の才を取る。

これは革新的な考え方だったかもしれない。しかし彼もまた血のルールの支配された、ただの人間でしかない。絶対的なルールに抗った判断をした結果、己の血で贖うこととなった。神聖なる舞台に大量の吐血をし死んだ。

 

異物がゆえに生き残るために「血が飲みたい」とすがりつく喜久雄と、血に支配されることを拒絶したがゆえに、血から拒絶された半次郎。この2つのシーンは綺麗に対比になっているように感じた。

 

その一方で血を持たない喜久雄が、一度は歌舞伎界から見捨てられながらも、なぜ復帰できたのか。その理由もまた血にあると私は考える。

人間国宝である万菊が喜久雄に助言じみたことを言うシーンがある。「綺麗なお顔、でも芸をするのには邪魔も邪魔。顔に喰われる」と。

これは、生まれ持ったものにすがるな、という意味にも取れるし、綺麗さという不確かだけど、人を狂わせてやまない価値観に対する警鐘にも取れる。振り回されるなよ、と。

 

多分なのだが、歌舞伎という悪魔は血を持たないものには、血以外のすべてを求めるのではないだろうか。

それは愛情であり、家族であり、努力や時間、やりがいや喜びといったものを捧げる(捨てる)ことで、歌舞伎は持たぬ者を舞台に立たせてくれるのではないか。例え血の通わぬ空っぽの存在だとしても。つまり血以外はすべて備えた存在にしてくれるのだ。

 

そして最後のシーン。

 

「鷺娘」を舞い踊る喜久雄は遂に長年追い求めていた"あの景色"を舞台の上で見ることとなる。

 

なぜあのタイミングだったのか。

 

我が子に認められたからじゃないだろうか。血が通ったからじゃないだろうか。

 

喜久雄は天涯孤独だった。家族ができたこともあったが、日本一の役者になるために家族も捨ててしまった。偽りの家族を作ろうとしたこともあった。

すべてを差し出し人間国宝の高みに辿り着いた喜久雄。彼に足りなかったのは、やはり血だったのだ。

唯一の肉親である娘が認めてくれたことで、喜久雄は血が繋がったのだと思う。

幼い頃からずっと見れなかった"あの景色"は失った家族の血だったのではないか。

私はそう感じた。

 

~~~~

 

徹頭徹尾、才能と血によって描かれた『国宝』。改めて凄まじい作品でした。

最高の映画体験をさせてくれたことに感謝。

 

それにしても吉沢亮ってこんなにイケメンなのに、どこか常に不幸の空気を纏ってるのなんなの?作品との相性最高でした。

 

以上。