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『蜜蜂と遠雷』の凄さを解剖してみる

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どうもどうも…読書中毒ブロガーのひろたつです。

今回は名作も名作、わざわざ私が紹介するまでもない超人気作品について語りたいと思う。

 

ずばり、

 

『蜜蜂と遠雷』

 

である。

 

 

恩田陸による傑作音楽小説であり、第156回直木賞に第14回本屋大賞受賞と、文壇界にも一般読者にも広く認められた、完全無欠に近い作品である。

 

広く知れ渡っている現在(2021年11月)、この作品の魅力を語ったところで「そんなん知ってるわ」と言われてしまうだろう。なので今回の記事では少し変わった角度から深堀りをしてみたい。

『蜜蜂と遠雷』では音楽小説として成り立たせるために、あらゆるテクニックが駆使されている。恩田陸という作家がめちゃくちゃ苦心してこの名作を織り上げているのが垣間見えた。しかしこの点は、他の方のレビューを見る限り、あまり着目されていない。

 

なので、この記事では作品の紹介はもちろんだけれども、

 

・『蜜蜂と遠雷』はなぜこんなにも面白いのか?

・「文章から音楽が聞こえてくる」の正体とは?

 

この非常に重要な2点について、限界まで語り尽くしてみたい。

 

言うまでもなく『蜜蜂と遠雷』は名作なので、こんなレビューは完全なる蛇足である。

それでも恥を忍んで、少しでも作品の魅力を後押しする一助になれば、と思う。

既読の方にとっては、お互いの読後の感想すり合わせとして、未読の方にとっては熱いオススメレビュー記事として読んでもらいたい。

 

 

※作品を深堀りするという記事の特性上、できる限り控えるが少なからずネタバレに繋がってしまう部分もある。その点は重々ご留意いただきたい。

 

 

『蜜蜂と遠雷』はなぜ面白いのか?

 

説明を始める前に、大前提として私の『蜜蜂と遠雷』の定義を伝えておく。

 

『蜜蜂と遠雷』はバトルものである。

 

これだ。

声を大にして言いたかったので、文字をでかくしてみた。あなたの脳内に大音声が響いていることを願う。

 

なぜ“バトル”かと言うと、『蜜蜂と遠雷』がピアノコンクールを舞台にしており、各演奏者の勝ち抜き戦が繰り広げられるから…という意味ではない

確かにそれはバトル要素ではあるし、「一体誰が勝つんだ?」とハラハラする点もバトルものっぽい。

しかし『蜜蜂と遠雷』にはもっと重要な要素があり、それがよりバトルものの構造にしている。

 

それは「強さの見せ方」にある。

 

「強さの見せ方」の巧みさ、多彩さによって、『蜜蜂と遠雷』はバトル漫画的な面白さを生み出し、そして多くの人を惹きつけたのだ。

 

 

強さを表現する4つの方法+1

 

そもそも文字は音楽ではない。当たり前の話である。

しかし、音楽小説において、しかもコンクールとなれば、どうにかして各コンテスタント(コンクールに出場している競技者)の強さや優劣を表現しなければならない

もしこれがマンガであれば簡単だ。倒してしまえばいいのである。単純に力の差を示した絵面を読者に見せつければ、強さを表現できる。(読者を納得させられる)

 

ではどうやって、小説という文字媒体で音楽の優劣や、コンテスタントの強さを表現するか?(読者に納得させるか)

 

それには主に4つの方法がある。

 

①テクニックを見せる

 

これは4つの中でも一番分かりやすい。

ピアノを弾く上でのテクニックについて、他の競技者よりも上回る表現をすれば良い。

 

例えば…

 

・音が大きい ⇔ 小さい、

・鳴り(響き) ⇔ 鳴らない、響かない

・運指の速い ⇔ ついていけない

・力が入っていない ⇔ あのフレーズを脱力して弾くなんて…

 

こんな感じで「テクニックによる比較」が生み出せる。

私自身があまりピアノのテクニックに詳しくないので、具体的な例が出てこないので恐縮だが、きっともっと色んなテクニックで表現できると思う。楽譜を覚えるのが早いとか、作曲者の意図を汲み取る感度が~みたいなの。

 

 

②イメージ

 

繰り返すが、小説で音楽は流せない。あらゆる表現を可能とする小説だが、音楽だけは本当に苦手だと思う。

では逆に小説において自由自在に表現できるものといえば?

 

それは映像である。

 

視覚や感情を操るのは、小説の超得意分野だ。なので、これを音楽の代わりとする。音楽が鳴ったときのイメージ、聞いている人の心象風景をビジュアルに描写する。

 

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ベタなところだと、天使がファンファーレ的なやつ

 

コンテスタントの演奏によって喚起されるイメージが壮大であればあるほど、強さの表現として成り立つだろう。また、観客の内面描写として、演奏に感化されて過去の思い出が掘り起こされたり、トラウマが浄化される、なんてことも起これば、より演者の天才性を示せる。

 

 

③リアクション

 

これもかなりシンプルだが、それゆえに強烈。

驚く、鳥肌が立つ、涙が流れる、震える、体が動かせなくなる…などなどの身体的な反応を見せることで、演奏の強さを表現する方法だ。

 

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涙は必殺。でも使いすぎると安っぽくなるから塩梅が大事

 

あとリアクションに関しては、演者との関係性だったり、物語の中での立ち位置によって、大きく効果が変わってくる。

分かりやすい例だと、厳しくて超性格の悪い審査員がついつい涙してしまう、というものだ。ベタすぎるけど、こういった展開は強烈な説得力が生まれる。

 

 

④評価する

 

最後はこれ。

作品内に存在する「分かっている人」に評価させる方法である。

「あの子は天才」「こんな才能は見たことがない…」みたいなことを言わせることで、比較や優劣をつけることができる。ラベリング的な意味合いを持たせられるだろう。海原雄山みたいなやつだ。

 

 

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この方もそうですね

 

または、上で挙げた3つの表現(テクニック・リアクション・イメージ)を使って、読者に強さを認めさせている作中の人物から「あの人は凄い」と言わせてみてもいい。

 

 

番外編

 

あと、正確には強さの表現にはならないのだが、あえて「表現しない」というものもある。

例えば、演奏を開始しようとした瞬間に別のシーンに移るなどして、肝心なところを見せない。で、後日のシーンとかで「あれは伝説の演奏だった」みたいに言わせる。

これによって、読者の中で勝手に「伝説の演奏」が生み出されるわけだ。書いていないけど、生み出せるというとっても省エネなテクニックだが、作家(もしくは作品)と読者との信頼関係が構築されてこそのテクニックなので、簡単に使えるものでもない。それに何度も使えるわけでもないから難しいところだろう。

(そういう意味で映画の『BECK』はこのテクニックの乱用で失敗した好例(?)だろう)

 

 

 

『蜜蜂と遠雷』は恩田陸の筆テクが凝縮されている

 

以上の4+1の方法を効果的に織り交ぜることで、恩田陸はピアノコンクールでの競い合いを、バトルものの構造に仕立て上げ、面白さを演出している。

 

あと再読して気づいたのだが、さらに凄いのが『蜜蜂と遠雷』では一貫して「否定がない」のである。

コンクールで優劣が付けられるストーリー展開なのに、登場人物たちへのマイナスな描写が一切なく、肯定同士の対決になっているのだ。

たぶんだけど、これは恩田陸が実際にピアノコンクールを取材して、各コンテスタントの様子を見たときに感じた敬意の表れなのだと思う。

私も学生時代に音楽に時間を費やした経験があるので分かるのだが、コンテストに出るような人間というのは、マジで化け物だ。音楽に対して真摯だし、テクニックは神の領域。減点方式で採点されるようなレベルはとうに超えていて、「どちらがより高みを見せたか」という世界の住人なのである。

そんな天上人である彼らの戦いを描写するに、あからさまな意地悪キャラ(実力はあるけど、主人公たちに卑怯な罠を仕掛けたりするタイプ)が出てきて波乱を巻き起こすような要素はそぐわないのである。

もっと崇高で、純粋な技量の戦いが相応しい。だからこその「否定ゼロ」なのである。

 

ただし、この執筆方法はかなり苦労しただろうと想像する。

なにせ、分かりやすい弱点、例えば人間性が低い、といったポイントがあれば、戦いを作りやすい。主人公との対比も生み出しやすく、読者を感情移入させることができる。

そういった物語を作りやすくする要素を一切排除して、「高みを求める者の頂上決戦」だけの表現で押し切ったという偉業に素直に拍手を送りたい。あとがきで執筆にめちゃくちゃ時間がかかったと書いてあったけど、そりゃこんな枷をつければそうなるでしょ。ダンベル縛り付けてタイピングするようなもんだ。

 

 

広く愛される理由もまた

 

私が『蜜蜂と遠雷』を読み終えたとき、めちゃくちゃ面白かったし、壮大な物語が終わった満足感と喪失感でいっぱいだった。と同時に、「なぜこの作品がこんなにも広く愛されているのか?」を言語化したいと思った。読み終えると今後は作品を深堀りしたくなる。食べきったら皿まで舐める。それがマニアってもんだ。だから本当の食通は食材とか食器の御託はいいから、皿を舐めなさい。皿を。料理長を呼んで褒める時間があったら、舐めろ。料理長を。

 

で、私の摩擦係数ゼロの脳みそで考えてみたところ、上で書いたとおり「否定のなさ」が鍵になっていると結論付けた。もっと言うと、「時流と合っていた」と思う。

 

一時期の日本のエンタメ界は、暴力やエロ・グロなどを過激にして、人気を得るフックにしている傾向があった。バナー広告なんかが分かりやすい例だろう。

しかしながらこの手法は、多くの人の目を引いたり印象に残る一方で、インフレしやすい。つまり、過激さがあまりにも蔓延してしまい、読者も慣れてくるし、それ以上の表現を生み出せなくなってしまうのだ。

また、過激さが過ぎれば当然色んな問題(クレームだったり、炎上)にも繋がりやすい。そして読者もそんな「過激さインフレ」に飽きるようになる。同じ味ばかりでエンタメは成り立たないのだ。だからたまには舐めよう、料理長を。

 

 

過激さへの嫌気が世間に充満してきたころ、日本のエンタメに次なる流れが生まれる。

それが「否定しない」である。

肯定し、優しさを前面に出すことで面白さを生み出す。誰も傷つけない面白さの追求。これが新しいスタンダードであるべきだ、という流れができたのである。

それが良いことか悪いことなのか私には分からないが、敵を作ることは少ないだろうな、と思う。

 

ピアノコンクールという特性上、相手を傷つけ合うような戦いはそこに存在しない。

お互いの“最高”を披露し合う。観客と読者は、ただただ演者の天才を浴びる。ここが『蜜蜂と遠雷』を読んでいるときに生まれる幸福感に大きく寄与していると思う。

物語の中で誰かが大きく挫折したり、理不尽に傷つけられたり、実力が足りないために虐げられたりといった、ある種の“心配”をする必要がない。物語の温かみや、愛情が感じられるから、信頼を持って読み進められるのだ。Yogiboぐらい身を預けられる。

ここら辺の温度感が時流と最高のタイミングで合ったのが、『蜜蜂と遠雷』が広く受け入れられた理由ではないだろうか。

 

 

…さて、というわけですでにかなり長文になってきているが、まだこの記事でとりあげるテーマの半分しか終わっていない。覚悟したまえ。

 

ということで、続いては「なぜ文面から音楽が聞こえてくるのか?」の正体に迫っていこう。

 

 

本当に音楽は聞こえているのか?

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本屋大賞を獲って一躍有名になった『蜜蜂と遠雷』だが、注目されるキッカケになったのは、アメトーークの読書芸人だったと記憶している。そのときも、スタジオにいた芸人さん方が「音楽が聴こえる」と興奮気味に語っていた。

これは『蜜蜂と遠雷』のレビューを見ても分かるが、多くの人が感じているようだ。

 

で、私はと言えば、少々批判的な物言いに受け取られるかもしれないが、

「聴こえたっちゃあ聴こえた」

というのが正直なところである。

 

私自身の感度の問題もあるだろうが「音楽が聴こえたか?」と尋ねられたら、正直な私は「それはない」と答えてしまう。

ちょっと意地悪なことを書くが、もし『蜜蜂と遠雷』を読まれて「音楽が聴こえた」という感想を持たれた方に聞きたい。

 

「聴こえたメロディーを口ずさめますか?」

 

別に責めているわけではなくて、意地悪をしたかったわけでもない。これは『蜜蜂と遠雷』の魅力と凄まじさを伝える上で、とても大事な質問なのである。

「聴こえたメロディーを口ずさめますか?」という質問に対して、「できる」と答えられる人はほとんどいないだろう。小説でメロディーを伝えることはできない。これは動かしようのない事実だ。

 

 

そうではない。音楽を“感じた”のだ

 

だが、だ。

『蜜蜂と遠雷』で私たちの多くは、たしかに音楽を聴いたような体験をしている。

メロディーを聴いていないにも関わらずだ。なぜだろうか?

 

これはつまり、『蜜蜂と遠雷』を読むことによって、私たちは音楽を聴いたのではなく、音楽を“感じた”からなのである。

 

ここに『蜜蜂と遠雷』の凄さ、そして恩田陸という稀代の作家の恐ろしいまでの技量の高さが伺えるのである。

 

 

なぜ音楽を感じられたか?

 

クロスモーダル現象をご存知だろうか。

VRなどで、リアルな映像と音響を体験すると、再現されていないはずの「匂い」「存在感」「感触」などを感じてしまう現象のことである。VRの美少女ゲームで「吐息を感じた」という話を聞いたことがあるが、それだ。

 

上の方で書いたように、『蜜蜂と遠雷』ではコンテスタントの優劣を付けるために、あらゆる表現方法を駆使している。

恩田陸の巧みな筆によって…

コンテスタントの技術を解説し、

彼らの生き様を見せ、

価値観を共有し、

臨場感を演出し、

感動を呼び起こし、

音楽の素晴らしさをこれでもかと提供してくれている。人間が音楽に対して感じられるものが『蜜蜂と遠雷』にはすべて揃っている。

これは言い換えると「聴こえる」以外はすべて表現されている、と言えるだろう。

 

つまり、『蜜蜂と遠雷』で聴こえる音楽というのは、上質な文章によって「聴こえる」の輪郭を色濃く縁取った結果、浮き上がってきたものなのだ。

 

「実際は聴こえてないでしょ?」というようなことを書いたが、本当に言いたかったのはこれである。私の拙い文章で伝わることを願うばかりである。

 

文字で音楽を伝えることはできない。そんなことができたら楽譜の存在意義が無くなってしまうだろう。でも確かに私たちは『蜜蜂と遠雷』で音楽を感じた。

矛盾した表現になるが、音楽が無かったとしても感じているのあれば、それは間違いなく『蜜蜂と遠雷』の中に音楽は存在していたという証拠である

 

 

足りない、という強い感情

 

クロスモーダル現象などを代表するように、人は情報が足りていなくとも、補って修正する能力がある。

 

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※有名な錯視であるカニッツアの三角形。存在しないはずの三角形が見える

 

 

不謹慎な例を出そう。

 

親しい人が亡くなったとしよう。

例えば、ネットで面白い話を見かけて「今度この話をしたいな」と思ったあと、「そっか、もういないだ…」と気付く…なんていう状況がある。

亡くなった方が自分の生活の当たり前になっていたことを思い知る。そして、改めて喪失感が湧き上がってくる。空虚感に胸が苦しくなる。

親しいその人を亡くした瞬間よりも、その存在を強く感じる瞬間だ。

 

このように、人は不足を実感したときにこそ、強く印象を持つのである。

 

『蜜蜂と遠雷』を読み終えた方、または私と同様に読んでいる最中にYouTubeで作中の楽曲を検索した方はきっと多いだろう。楽曲のメロディーを確かめたくて仕方なかったと思う。

本当に音楽が聴こえていたのであれば、そんな行為は必要ないはずだ。

だが、実際私たちが『蜜蜂と遠雷』で感じていたのは“音楽の輪郭”だったから、その埋め合わせがしたくなってしまうのである。

ある意味で、その“音楽への飢餓感”が『蜜蜂と遠雷』を一気読みさせる原動力になっているのだ。

 

 

最後に。『蜜蜂と遠雷』というタイトルについて

 

このブログでは何度か書いているが、私は極度のタイトルフェチである。

 

フェチが高じて、過去にこんな記事も書いている。

 

www.orehero.net

 

www.orehero.net

 

そんな私なので、『蜜蜂と遠雷』という意味深なタイトルには引っかかりがあった。

これは若干ネタバレになってしまうけれど、作中で蜜蜂も遠雷もほとんど出てこないのだ。情景描写でやんわり触れられている程度だ(ここは人によって感じ方が違うだろうが)。読む前はそういうキャラが出てくるかと思ってたし。

 

で、自分なりに作品を咀嚼し、タイトルの意味を考えてみて、答え合わせをしようと検索してみたらびっくり。なんと恩田陸がその意味を語っていなかった。

『蜜蜂と遠雷』を読み終えたブロガーの独自解釈記事みたいなものはたくさんあるみたいだが、私は他人の解釈にまったく興味がないので未読である。作者が答えを教えてくれない以上、好き放題解釈&妄想を膨らませられるから、楽しんで記事を書いているんだろうな、と思う。

 

ここで、私なりの『蜜蜂と遠雷』の意味を書こうと思ったが、あまりにも自己満足すぎるので控えるとする。他の方がすでにやっているのであれば尚更だ。他人が書かないようばものは何か…と考えた上でのこの記事である。

 

これだけ味わい深くて、語りようのある作品なので、きっと人それぞれにいくらでもタイトルの意味を生み出せると思う。

 

語らずに意味を読み取らせるなんて、まるで音楽のようなタイトルではないか。

 

 

 

以上。

 

 

 

ネタバレ感想

 

あとひとつだけ。これは完全にネタバレになるので、未読の方はこの先を読まないようお願いしたい。

 

 

*****

 

 

素晴らしい表現に、名言もたくさん繰り出される『蜜蜂と遠雷』だが、個人的に最高だと感じたのは、明石による『春と修羅』の演奏シーンである。鳥肌の立ち方が凄まじかった。

恥ずかしながら私は古典や名作といった類をほとんど通ってきていないので、宮沢賢治の『春と修羅』も未読である。あと、年齢的に言っても明石が一番共感しやすい人物だったのもあると思う。

彼の演奏で、『春と修羅』の一文が引用される箇所がある。

 

「あめゆじゅうとてちてけんじゃ」

 

死の床にいる賢治の妹が、「外の雨雪をとってきて」とお願いする言葉だ。

繰り返すが私は『春と修羅』を未読である。だが、この一文を読んだとき、たしかに病床に伏した幼い少女の声を聴いた。心のなかに冷たい手を差し込まれたようにゾッとした。その瞬間に鳥肌、である。

 

これも恩田陸の手腕の為せる業なのか。それとも宮沢賢治という天才の力なのか。分からないけれど、とにかく凄まじい体験だった。未だに分かんないけど、本当になんだったんだあれ。

 

 

ということで、かなりまとまりに欠ける書評記事になってしまったが、『蜜蜂と遠雷』によってひとりのブロガーが異常に興奮していることだけでも伝われば十分である。

 

本当にこれでおしまい。

 

 

 

※名言だらけの『蜜蜂と遠雷』なので、本文を引用してその素晴らしさを語ることもできた。実際やっている記事はめちゃくちゃある。だからこそ、あえて本文の引用を一切していない。そんな私のブロガー根性を褒めてほしい。