どうも、パパブロガーのひろたつです。たまには、くっせえ話をしたい。
「なぜ子供を作るのか?」に対する、今のところの答えである。
3児の父
私には血の繋がった子供が3人いる。本当に血が繋がっているかどうかは奥さんしか知らないことだが、私は血縁関係があるものと信じて日々育児に励んでいる。別に血縁関係じゃなかったとしても今更どうでもいいし、育児だってそこまで気合い入れて励んでいるわけでない。日々適当に過ごしている。
こうやってブログに好き勝手なことを書いていると、たまに知らない人から怒られることがある。ただでさえ日常生活では知ってる人(主に奥さん・上司・部下・妻・奥方・ワイフ・細君など)から怒られるってのに、人生で唯一のオアシスであるネットでまで怒られるなんて、現世で散々苦労して徳を積んで行った天国で、待ち受けてた天使に拷問されるようなもんだ。
過去一で衝撃的だった怒られ方が「こんなバカが親になるなんて、子供が可哀想。まだウンコが親になった方がマシ」というものだ。まあさすがにここまでの暴言ではなかったが、意訳させてもらった。私は被害者意識が強いタチなのである。裁判へのハードルが低いから、周囲の皆々様は取り扱いに是非とも注意してほしい。
衝撃の「反出生主義」という考え方
私の子供が可哀想かどうかはとりあえず置いといて、その暴言を吐いた人を調べてみることにした。どういった文脈から出てきた発言なのか知りたかったのだ。
すると、どうやら「反出生主義」という考え方が基本になっているらしい。ウンコをリスペクトしすぎるタイプの、いわゆるスカト○ではなかったので安心した。
ちなみに、反出生主義というのは…
「人は生きていく中で幸福になるか、不幸になるか分からない。ギャンブルみたいなもの。であれば、そもそも人が生まれなければ誰も不幸にならない。なので子供を作ることは間違っている」
という考え方ある。
つまり、暴言を吐いたその方からすれば、不幸になってしまうかもしれない子供を3人も作っている私は、下衆も下衆。最低の悪魔野郎なのである。
私は今までこんな考え方をしたことがなかったので、相当に衝撃を受けた。それと同時に「たしかに」と妙に納得した。極論かもしれないけれど、「人の不幸を無くしたい」という問題の答えになっているように思える。反論が難しい。
それからというもの、私は自問自答を繰り返している。「なぜ子供を作るのか?」と。
少なからず、暴言の吐かれたことに対する抵抗もあるし、「子供を作る」という選択をした自分を肯定したい気持ちがあった。
それが先日、やっとそれなりに納得できる解答を見つけることができた。
ある日、届いた質問
きっかけは「質問箱」に届いたひとつの質問。
「死ぬのは怖いですか?」
投稿してくれた方がどういった意図で聞いたのか、この短い文面からは分からない。
でも受け取った私は、死生観について深く潜り込む良いきっかけになった。
自分や周囲の人がいつか全員死んでしまうという事実に震えた幼い頃。寝るのがやたら怖かった記憶がある。
思えば、身近な人の死に触れる機会が多い方だと思う。(先生が2人、同級生が3人亡くなってるって、けっこう珍しいのでは)
自殺したり、大型トラックに轢かれて亡くなった友人や、ヤクザに殺された先生とか。でもそのたびに「自分からは遠いこと」と捉えていた。死への恐怖を直視したくないから、目をそらしていたのかもしれない。
で、「死ぬのが怖いか?」という質問をもらって、改めて考えてみた。自分は怖がってるだろうか。
確かに死ぬのは嫌だけど、どこか受け入れている部分が大きい。怖いというよりも嫌、という方がしっくり来る。いつの間にか恐怖感はだいぶ薄らいでいる。
なぜだろう。
年齢を重ねて、さすがに死ぬことを当たり前だと認識できるようになったのだろうか。
誰が死んだら、死ぬ?
思うに、子供がそばにいることが大きい。
というのも、奴らが近くにいると死を意識する機会がめっちゃ多い。
すぐに道路に飛び出すし、包丁に手を伸ばすし、湯船のふちに立って遊んだりする。とりあえず死のうとする。それが子供である。
そもそも奥さんが「出産する」という時点で死を意識していた。「高い確率ではないけれど、出産に死は付きもの」というのが私の認識だったので、奥さんには当然言わないが「奥さんと子供のどちらかに万一のことが起きる可能性はある。覚悟を決めておこう」と考えていた。なんか酷い奴に思われそうだが、まあ本当なので仕方ない。
誰にも死んでほしくなんかないけど(本当はたまに「こいつ死んでくれねぇかな」っていう奴はいる)、でも生きている以上、いつかは死ぬ。そのタイミングは分からない。
だから自分の子供たちに何か不幸があって、死んでしまった場合を想像してみることがある。
うん、もう生きてる理由ないな。素直にそう思う。
冷静に考えると生きる理由はあるんだけど、「別に死んでもいいな」と思える程度にはダメージを受けそうだ。
奥さん・彼女・婚約者・親兄弟・友人・同僚・恩師・命の恩人などなど、色んな身近な人の顔や、果ては違う世界線のシチュエーションまで想像してみたけれど、他人が死んだことで、私が生きることを放棄するほどショックを受けるとは思えない。
言い方を変えるなら、他の誰が死んだとしても、自分は生きていたい。
理由は簡単。子供たちがいるからだ。
結局は動物なんでしょうね
私は親なので子供を育てる責任がある。社会的に決まっていることである。
でもそうやって決められる以上に、もう私の中で「子供たちが成人するまでを見届けたい」という気持ちが大きい。これが愛情なのかと考えるとちょっとしっくり来なくて、もっと本能的な、いや動物的な感情な気がする。
どれだけ知性があるように振る舞ったところで、結局は動物なのだ。子供に命のリレーを渡すことが生きる目的。だから子供ためなら死ねるし、子供を失えば生きる理由さえも失ってしまう。同じように、自分が死ぬとしても子供たちが元気であってくれれば、別に死ぬことになったとしても「まあいいか」と思える気がする。
そうやって考えていくと、死ぬことそのものがリアルに感じられる。死が遠いものでも、ひたすらに恐れおののくものでもなくなる。「こうだったら死ぬな、普通に」と思える。具体的に受け入れられる。
どうやら私の現時点での「子供を作るメリット」の答えは、「死ねる理由ができたこで、死への恐怖が和らいだ」になりそうだ。
「子供がいると人間的に成長」とか「無償の愛に気づく」みたいなのは正直よく分からない。現にどれだけ育児をしても疲労を重ねるだけで、成長を実感することなんてないし、子供たちを可愛がるのは無償の愛があるからではなく、ただ単に子供が可愛いからだ。可愛くないときは可愛がれない。当たり前の話だ。
ということで、これからも愚かな親なりに子育てに邁進していきたい。そして疲労困憊しながら、色んな意味で死を身近に感じていきたいと思う。
以上。