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成功者の苦労話には「壊れない程度に」という前提がある

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どうも、兼業ブロガーのひろたつです。

私は常日頃から本を読んで過ごしているのだが、いわゆるビジネス書の類も好んで読んでいる。私自身はまったくのダメサラリーマンでありポンコツビジネスマンなのだが、一流の人達の言葉を読むとなぜか自分も「デキる側」に仲間入りしたような気分になれるので、心の覚せい剤として頻繁に利用させてもらっている。つまりビジネス書の正しい使い方をしているということだ。

 

イマイチ乗り切れない武勇伝

で、このビジネス書なのだが、よくあるパターンとして、大成功を収めた人が「こんな苦労をして、こんな辛い時期を乗り越えてきたんっすよ~」的な語られ方をする。「誰よりも努力した」とか「寝ずに仕事した」とか書かれている。

成人男性の平均以下の体力しか持たない私としては人外の話を聞いているような気分になる。凄いとは思うけれど、「宇宙空間に放り出されたけど、気合で乗り切ったんすよ」と同じように聞こえる。人よりも並外れた体力があったからこそできた芸当だと思ってしまう。 

 

人には生存バイアスと呼ばれる認知の歪みがあって、競争から生き残った人ほど自分の行動を正当化してしまう傾向あるそうだ。

努力が成功をもたらしたり、危機を乗り越える原動力になることは否定しないが、それ以外の要素、例えば身近な人の支えとか、自分自身の生まれ持った体力とか、親の財力とか知力とかである。

これらは本人の努力とはまったく関係ないが、それでも成功をもたらす条件にはなりえる。

しかし、自身からしたら「努力した」という印象や「継続した」みたいな印象の方が強いために、そればかりが重要だと考えてしまう。だから考え方もそちら側に偏りがちになる。

これは誰が悪いというものではなくて、人間に備わった能力の特性によるものである。(親の育て方が良かったとリアルタイムで実感できる人は少ないだろう。あとから冷静になって認知するものである)

 

あんまり真に受けない方がよろしい

で、こういったビジネス書を読むのもいいし、成功体験を疑似体験するのもいいと思うのだが、あまりにも真に受けるというか、「自分もできるかも」と思ってしまうのは疑問である。

生存バイアスが作用しているように、ビジネス書を書いている人たちはそもそも“生き残ってる側”なのである。もしかしたら、彼らが蹴散らしてきた同業者の中には、失敗して自殺した人だっているかもしれないのだ。自殺した人は当然ビジネス書を書くことはできない。だからそういった悲劇側の方が圧倒的に語られる機会が少ない。まともに考えても、そちら側の方が事例としては多いはずなのに。

 

努力や継続は人生を向上させるためには、ある側面では必須の能力である。これは長らく社会人として生きてきた私の実感である。副業であるブロガー界隈を見渡してみても、それは間違いないと思う。だから成功者が語る努力論にも一理はある。

しかしながら、そもそも成功することと幸福になることは違う。金持ちと幸せがイコールになることはない。具体的な話をすると、アメリカのメジャーリーガー(俗に言う億万長者の分類である)の全体の80%が引退5年以内に破産申告している。

 

お金がないと生活が成り立たないので、ある程度は必須である。ここは否定しない。しかし生活が安定するレベルを超えるお金は、付加価値でしかなく本質ではない。むしろそれを本質としと誤認してしまうことは不幸につながる。

よく言う「足るを知る」は至言である。

「足らないを知る」は不幸へのジェットーコースターだ。

 

日本ではあまりにも努力や継続が礼賛されすぎている。責任感が人を動かす分にはいいが、欲望や見栄、義務感で努力をする、しすぎるのはどうだろうか。それで身体を壊してしまっては、元も子もない。苦労話に感化されるのはいいが、彼らの苦労話には「壊れない程度に」という前提があることを忘れてはいけない。

 

一番難しいのは「程度」を決めること

私が仕事をしていて、いや、人生を過ごす上で一番難しいと思うことは「程度」である。

ノウハウやコツは人から教えてもらえるが、人それぞれでしかない「程度」は、マジでびっくりするぐらい誰も教えてくれない。山ほど売られているビジネス書でも「程度」について具体的に教えてくれるもは見たことがない。それぐらい取り扱いが難しいものなのだろう。

しかし、実はこの「程度」こそが、人生の生き方や身の振り方に直結するわけで、それに伴ってあらゆる場面での決断にも影響する。

「自分にはこの程度の体力しかないから、ここは断っておこう」

とか

「友達は大切だけど、自分の時間が奪われすぎちゃうから、相談を聞くのはこの程度にしておこう」

とか。

 

こういった判断は非常に重要だが、誰も教えてくれないのである。バランス感覚とも言えるだろうか。

 

何が言いたいかをまとめると、他人から得られる情報なんて、実はそれほど重要ではなくて、それよりも自分自身の程度を知ることの方がよっぽど重要だし、自分を知っていた方が有意義だということである。

 

この世の中にはあまりにも情報が溢れすぎていて、間違い探しが得意すぎる私たちの脳は、すぐさま誰かと比べたがってしまう。

しかしそれではすぐに疲弊してしまうし、自分の「足りなさ」ばかりに目が言ってしまうし、自分が次第に見えなくなってしまう。

 

周りばかりを見ていれば、周りのことには詳しくなるだろうが、その分、自分のことは知らないままになってしまうものだ。

なにせ人の目は、自分のことは見えない位置についているのだから。

 

以上。