どうも。
先日よしもとばななの『すばらしい日々』という本を紹介した。
よしもとばななの凄さを語るだけの記事になってしまったのだが、まだ語り足りないことがあったので、記事にまとめてみよう。
すばらしい日々は誰に?
『すばらしい日々』は、よしもとばななの日常を綴ったエッセイである。
それほど特別な人生を歩んでいるわけではないので、出てくるエピソードはとてもささやかである。それでも彼女の類まれなる筆力によって、静かで深みのある感動を味わえる。「本当にこの人の人生は素晴らしい」と思った。
で、読みながら私がつくづく思ったのは、「この素晴らしさは、この人が素晴らしい人だからこそ見つけられたものだな」ということ。
私は神様でもなんでもないので、絶対とは言えないのだが、どうやらこの世の中にはそこら中に幸福のタネみたいなものが転がっているらしい。
それを見つけられるかどうかというのは、その人が見つけようとしているかどうかもあるし、そもそも幸福を感知できるだけの感性を持ち合わせているか、が重要になるみたいだ。
幸福を見つける能力
人の目が前しか見れないように、人の脳も普通にしていたら一方向からしか考えられない。自分から知覚しているもの(分かっていること)がすべてだと思い込みがちなのである。
不幸だったり、つまらないと決めつけている毎日が、実は見方を変えるだけで一気に素晴らしいものへと様変わりしたりする。
逆のパターンで例を挙げてみよう。
私は職場で大量の部下を抱えており、常に100人以上が蠢いている。どこもかしこも人だらけの職場で戦っている。
そんなに大量の部下を見ていると、色んなタイプと出会う。で、今回の話のように同じ仕事をしていても、楽しくやっている人もいあれば、地獄の中にいるような顔をしてやている人もいる。
楽しくやってる派は、勝手に成長するし成果も出してくれるので、放っておいても構わない。問題は地獄顔たちである。ここをフォローするのが上司である私の役目だ。正直近づかずに平和に暮らしたいものだが、職務上仕方ない。部下であれば全員を愛してあげるのが私の仕事である。
で、そういう地獄顔たちにはよく見られるパターンがある。
物事に対して否定から入るのだ。そして常に自分に降り掛かっている不幸をあげつらっている。
何か困っているようなので聞いてみると、「ここの基準が曖昧で仕事にならない」と言う。
部下の障害を取り除くのも私の役目なので、上役と相談して明確に基準を決める。
そうすると今度は「そんな厳しい基準じゃ仕事にならない」と言い出す。
つまりどちらにしろ、彼らは納得しないのだ。
俯瞰している私からすると、まるで自分で自分を不幸にしたがっているように見える。不幸の自作自演である。不幸力だ。
人は見たいものを見る
きっと不幸になりたくてなっている訳ではないと思うので、実際は「不幸だと思える要素ばかりに目が行ってしまう」なのだろう。
悲観的になることは悪いことではない。
悪い予測を立てて動くことは、非常に安全側であり、計画的だと思う。優秀な人間に必要な能力だ。でも悪い予測ばかりに目が行って、何もする気にならないのはマズイだろう。しかしそういうふうに自分を追い詰める人もまた多い。
不幸がどこにあるのか常に注意を払っていれば、それだけ不幸を避けられる。でもそれは一方で「不幸ばかり見ている」ということでもある。
どこかで読んだのだが、人の脳は否定形を理解できないそうだ。「ああいうふうにはなりたくない」と常に思っていると、脳はその対象ばかりを刷り込んでしまい、時間と共に「なりたくなかったもの」になってしまうそうなのだ。恐ろしい話だ。
不幸を避けたいがばかりに不幸に目を向け続けていると、いつしか本当に不幸なパターンに陥る、というわけ。
これと同じことが幸福や素晴らしさにも言える。
自分が幸せであると思って、幸せを探すから見つけられる。素晴らしい出来事がなかったかと思い起こすから、思い出が彩られる。また、素晴らしい出来事に出会える。
幸せな人しか幸せになれない
トマ・ピケティの『21世紀の資本論』という本の中で、「富を持てるものに富は集中する」という残酷な事実が語られている…らしい。こんな小難しそうな本を読みことは一生ない。
これと同じ現象が幸福にもあると思う。
幸せな人だからこそ、幸せを見つけられる。そしてまたより幸せになる。
不幸なひとだからこそ、不幸を見つけてしまう。そしてまたより不幸を強化する。
そんな”幸福格差”みたいなのが、世の中には出来上がっているのかなと。
あんまり無責任な言葉を並べ立てるのは好きじゃないのだが、『すばらしい日々』を読んでいて、そんな真理があるのではないかと思った次第である。
以上。早く幸せになりたい。