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ケツメイシに興味がなくなった

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赤子、老人、少年少女、壮年中年。

世の中には様々な人がいるが、その中で断トツで人気がないカテゴリーは間違いなくオッサンだろう。というかオッサンは基本的に、嫌われるかどうでもいいと思われているかのどちらかであり、人気者レースにはそもそもエントリーされていないのだ。大会主催者側が募っていない、オッサンを。

しかしながら世の中には少ないながらもやはり例外がいて、人気者のオッサンがごくごくたまにいる。

で、私もそんな人気者のオッサンのファンになった一人である。正確にはオッサンたち、である。

 

私がファンになったオッサンとは、

 

ケツメイシである。

 

 

 

学生時代に彼らの代表曲『トモダチ』を聴き、『花鳥風月』で衝撃を受け、『ケツノポリス3』で完全にハマった。狂ったようにループしてたし、楽曲のリリックをすべて暗記するレベルで聴き込んでた。なんなら紙に書き写してた。Wordに入力してた。仕事中にやってて上司に怒られたときもある。病気だ、完全に。正真正銘のサラリーシーフだ。

ライブDVDも全部持ってた。腐るほど観た。

メンバーのステージ上でのパフォーマンスを楽しむだけじゃ飽き足らず、細かい目配せや、タイミングなどを見て「ここは完璧」とか「このとき仲悪かったんだなぁ」なんてことまで分かるぐらい、彼らを見続けていた。

正直、この頃の私はケツメイシにしか興味がなかった。それくらい大好きだった。

 

だった、である。

 

 

今ではどうか。

別に嫌いになったわけではない。

 

もしかしたらもっと悪い状態かもしれない。

 

興味がなくなったのだ。

 

 

私がケツメイシを好きになったのは、彼らが言葉を大切にしていたからだ。

他のヒップホップアーティストにはない真剣さがあった。

 

具体例を出すと敵を作ってしまうので避けたいのだが、まあいいだろう。

私が大嫌いなタイプのラップは例えばこういうのだ。

 

恥じらいも今日はあいにくお留守

孤独を噛む群れのマングース 

 

曲名はあえて書かないが、こういった「韻を踏むために安い隠喩をする」というのが本当に大っ嫌いで、これを私は「言葉を大切にしていない」 と感じる。

もっと言うと、言葉を大切にしないというのはつまり、「リスナーをナメている」と感じる。適当な仕事で済ませているように思う。

 

あとは雑に英語を入れて韻踏むやつとかも大嫌いだった。

そんな歌詞ばかりが街の音楽には大量に溢れてた。

 

 

 

しかし、ケツメイシは違った。

 

リリックは意味が通るし、安い隠喩を使わない。なのに韻は超固い。複雑怪奇なリズムにして無理やり単語を詰め込むようなこともせず、心地よさをキープしつつも、美しい日本語を並べてくれた。

 

これだけ純粋な日本語でラップしてくれるアーティストはいなかった。

 

もっと言うと、彼らのリリックは深かった

 

表面を撫でるような「会いたい」みたいな歌詞じゃなくて、「なるほど!」と言いたくなるような含蓄深いリリックだった。

だから大好きだった。カラオケで歌っても恥ずかしくないアーティストだった。ノリだけで終わらない。そんなケツメイシが大好きだった。

 

 

最初に違和感をおぼえたのは、『そばにいて』だった。

サビの歌詞がもろに薄っぺらかった。

 

Ryojiの美声と美メロの勢いで説得されそうになったが、聴き込めば聴き込むほどに薄っぺらい。なんだ「今も忘れず胸の中でyour love」って。ダメな歌詞の代表例じゃないか。

だけどまだこのときは、ラップパートのクオリティでなんとか保っていた。サビは薄っぺらだけど、ラップでは深みを出す。足して割ったら平均点になってしまうのだが、それまでずっと大好きだったので、「ちょっとおかしいな?」ぐらいで済んだ。

まあ、好きがゆえの盲目だったわけだ。

 

 

決定的だったのは『さくら』である。

ケツメイシを不動のアーティストたらしめた楽曲だ。MVに出てきた鈴木えみの可愛さは暴力的だった。

 

彼らがブレイクしたことはファンとしては素直に嬉しかった。

色んな場所で『さくら』が流れる。誰もが『さくら』を歌える。

 

 

でも、ファンとしての喜びとは別の側面で私はどんどん冷めていった。

 

「この楽曲のどこに深みが?」

 

さくらをイメージした、それらしいキレイな言葉が並べ立てられた楽曲。

 

きっと英語交じりのラップばかりを聞いていた人からしたら「ケツメイシっていいじゃん!」となったのだろう。

だが、もっと練られた上っ面だけじゃない歌詞の頃から見ている身としては、どうしても楽しみきれなかった。

というか、深みがないから繰り返し聴くに耐えなかった。

なんならしつこく繰り返されるサビのせいで、一回聴くのだってキツイぐらいだった。

 

 

ラップラップしていると間口が狭くなってしまう。だからこそポップ路線に行き、彼らは成功を収めた。文句なしに売れた。

ポップであることは否定しない。だけど薄っぺらいのはダメだ。表面の感情を撫でるだけの歌詞は受け付けられない。

 

「会えないから悲しい」

「好きだから会いたい」

「思いがあふれて苦しい」

 

こんなのは「お腹空いたからなにか食べたい」と同レベルだ。あまりにも動物的すぎる。そんなんに感動はできない。

 

 

…と書きながらも私は分かっている。

それがいい、という人が多いからこそケツメイシは売れているのだ。私のような楽しみ方をしたい人は、少数派なのだ。捨てられる側なのである。

 

 

 

いつだかRyoが「楽曲のテーマが無くなってきている」と語っていた。

アーティストは表現してなんぼである。しかも昔のケツメイシは「語ること」がキモだったので、語れるだけの重要なテーマを探そうと思ったら、それは厳しい。

なぜなら人生の本質は、非常にシンプルだからだ。大事なことを語ろうとすれば、同じようなことばかり語ることになってしまう。

 

たぶん、これが彼らの楽曲を薄っぺらくした原因なんだと思う。

本当に大事なことを語ろうと思ったら、同じことを語らなくてはならない。でも同じものは出せない。違う作品にしたければ、違う装いにしなければならい。

 

歌詞はメロディーよりもバリエーションが作りにくい。

なぜなら人間の中にある人生に関する文脈なんて、そんなにたくさんはないからだ。あったら、それこそ“薄っぺらく”なってしまう。

だからケツメイシは本質は変えずに、ファッションだけ着替えさせたような楽曲を作るようになった。その結果、同じような味ばかりになる。

 

それが私は悲しいと思う。

 

 

***

 

これはただの愚痴だ。

ケツメイシが悪いとか、そういう話ではない。もちろん私が悪いとも思わない。

単に時間が経ってしまった、というだけの話である。

 

 

気づけば私もなかなかのオッサンになった。

オッサンになった私がつくづく思うのは、

 

「同じものを好きで居続けることは難しい」

 

ということと、

 

「変わらずにいることは難しい」

 

という、100人中99人が分かっていることだ。残りの1人は私なので、もう100人になった。

 

 

 

この記事を書くにあたって、数年ぶりにケツメイシの新曲を聴いてみた。歌詞もじっくり読み込んでみた。

 

しかし、やっぱり私の胸には何も去来しなかった。

 

残念ではあったけど、「そっか」と思って納得できた。

もうすでに失っていたのだ。

お互いに。

 

 

 

得るのは嬉しいし、失うのは悲しい。

 

 

ただそれだけの話である。

 

 

以上。

 

 

 

 

 

ちなみに一番好きな歌詞は『わすれもの』。

 

収録アルバムはこちら。