俺だってヒーローになりてえよ

何が足りないかって、あれだよあれ。何が足りないか分かる能力。

俺だってヒーローになりてえよ

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「価値観の違う人」を知ることで広がる世界

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人気ブロガーはつらいよ

 

どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。

このブログは月間で約23万回ぐらい読まれている。ほんとうにありがたい限りだ。

で、それだけ読まれていると、色んなコメントが寄せられる。毀誉褒貶さまざまである。

もちろん肯定的なコメントをもらえれば嬉しいし、暴言をはかれて喜べるほど私は変態ではないので、それなりにダメージを受けたり、ウケたり(面白がるの意)している。別に煽っているわけじゃない。ただの事実である。

先日、いつもの如く強烈な罵倒をいただいた。曰く「頭がおかしい奴」らしい。どMだったらご褒美コメントだろうが、私にはただの暴言である。どうもありがとう。ヨダレが出るよ。

ブログというメディアを運営している以上、否定的な意見からは逃れられないとは分かっているものの、いざ批判にさらされると「なんだこの野郎!」みたいな怒りに駆られる。不快になるときもある。

しかしながらブロガーたるもの、日常の不快な出来事もネタにするのが役割である。文章芸人みたいなところがある。なので、せっかく幸運にも嫌な目にあったので、早速記事のネタにしてみることとする。

 

 

誰も興味がないであろう話の経緯

 

あまり具体的な話はしないが、ざっくりフェイクを交えてまとめるとこんな感じ。

 

親になることの難しさについて偉そうに語った記事を書いた

批判のコメント

批判される意味が分からない

批判の意図を理解するために、相手のツイッターや主義主張を調べる

「反出生主義」という考え方を知る

知れば知るほど論理的で、間接的に論破される

自分の立ち位置に疑問を感じる。未だに解決していない

批判された方にコメントをしようとしたら、ブロックされていた

 

 

私は勉学は嫌いなのだが、知らないことを知るのは大好きなので、もしそれが嫌いな人のことだったとしても、興味を持ってしまう。

今回の件では、子持ちである私の存在を完全否定する考えだったが、それでも「なるほど」という興味が持ってしまった。何なら、ちょっと面白かった。

 

 

ネットで世界は広がらない

 

誰でもそうだと思うが、人は自然と自分の心地よいものばかりを周りに置いてしまう。

それはそれで構わないし、幸せだと思うのだが、如何せん視野が狭くなりがちだ。

もっと言うと成長が無くなる。

同じ世界でぐるぐる回り続けるだけで、広がりがない。もちろん広がる必要なんてなくて、広がりたい人だけが広がればいいだろう。

ネットを使えば色んなものを見られるようになる。好きなものもたくさん見られるけれど、同時に不快なものも飛び込んでくる。

そういった不快なものにフィルターをかける機能も付いているから、手軽に心地の良い世界を構築できる。素晴らしい。ネットで世界は広くならない。むしろ完結させることで狭くなっている。

 

 

不快なものは避けるべき?

 

私のしょぼい経験から言わせてもらうと、この”不快なもの”の中には自分を知るためのヒントが隠れている割合が高い。それは「生理的に嫌」とかいう浅いものではなくて、もっと自分の価値観に関わる部分での話だ。

自分の心の琴線に触れる理由が、不快なことの中にはある。

そこで目をそらさずに、じっと自分の中を眺める。過去を思い返したり、普段何気なく考えていることや感じていることを省みる。

すると、思わぬ発見がある。自分でかけているつもりのなかった色眼鏡の存在に気づくことがある。

これは結構刺激的な体験である。もっと直截な表現をすると、快感だ。世界が広がる感覚を得られる。オーバーじゃなく、目の前がクリアになる。

この体験は、自分を省みて、自分の正義と真摯に向き合った人間にしか得られない。

 

 

自分を疑うのは面倒。相手を敵だと決めつければラク

 

わざわざ自分を疑うのは面倒だ。

不快なものを見つけたときに、相手側が悪いと決めつけて論破する方向にだけ考えれば、思考の目線は一方向だけで済む。

しかし、自分自身にも疑いの眼差しを向けるとなると、同時に2つの方向を見なければならない。これは面倒だ。疲れもするだろう。

 

だから人はラクに逃げる。「自己完結」させて、相手を攻撃するだけに終止する。

これを分かっている私は、何かに怒りを感じたときに反射的に怯むようになった。

「この怒りはどこから出ているのか?」

「ただ単に自分が未熟だからじゃないか?」

「問題の本質はなんだ?」

「相手の正義はなに?なにに捕らわれている?悪意はあるか?」

などなど、自らに問いかけることが多すぎるからだ。

発言する前にたくさんの鍵を外さないと言葉にできないイメージだ。うん、これはとっても窮屈だ。

 

 

バカなりに成長したい所存でございます

 

でもそれでいいと思っている。

そうやって深く考えることで、また私は賢くなれるはずだ。私はバカかもしれないが、死ぬまでにはマシなバカになっていたいと常々思っている。

不快さを感じた自分を被害者に仕立て上げ、原因になった相手を悪だと決めつけ、怒りにかえて放出すれば、とっても気持ちいいだろう。

でも「あー、スッキリした」と自慰を嗜んだみたいになってそこでオシマイである。あまりにも浅すぎる。

 

人によっては不快なものと向き合うストレスに耐えられないぐらい、ストレス耐性の低い人もいるだろうから、人それぞれだろう。

自分にできる範囲で向き合えばいい。

 

人間はどうしたって勝手に老いていく。新しいものを吸収できなくなっていく。それが自然の流れである。

でも思うのだ。

それでも、自分の心がけ次第で、いつでも変われるし、新しいものを受け入れられるし、成長もできると。そう簡単に人間は完成しないはずだ。いつまでもフラフラと価値観を揺さぶられながら、少しずつ前へと進めるはずだ。

 

古い幹からも、新しい芽が出る。それは植物に限った話ではないはずだ。

 

以上。