俺だってヒーローになりてえよ

何が足りないかって、あれだよあれ。何が足りないか分かる能力。

俺だってヒーローになりてえよ

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親切が嫌いです

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少数派の苦しみ。

 

親切嫌いな人です

どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。

 

いきなりだが、私は親切が嫌いである。その理由について話をしたい。

 

このブログでは何度も書いているが、私は職場で大量を部下を抱えており(100人ぐらい)、日々人付き合いの荒波に揉まれながらなんとか息をしている。

三人寄れば文殊の知恵なんて言うが、毎日大量の人間を相手にしている私からすれば、「二人いたら諍いが生まれる」である。とにかく人は争うのが大好きな生き物だ。

やれ「やり方が違う」だの「言い方が気に入らない」だの「ルールを守ってない」だのと、正直私からしたらクソほどどうでもいいことで、みんな誰かを嫌いになっている。

嫌いな人のことはよく観察するのか、本当に細かいところまで見ている。「よくそんな細かいところに気がついたな」と感心してしまうぐらいで、これはもう逆にその相手のことを好きなんじゃないかと思うぐらい、執着している。人は見たいものを見る、とよく言うし。

 

そんな腐りきった職場なので、管理職はどうしても今どきの就活生よろしく潤滑油的な性格になりがちである。

本来であればひとりで黙々と作業をするのが好きな私だが、仕方なく他人の感情を収める役割に奔走している。世の中には自分の悪感情を扱うのが下手な人が多すぎる。

 

一番無難な態度とは

よく考えることがある。

「人が集まる職場では、一体どんな態度が正解なのか」と。

そんなのその人によるでしょ、というような何の参考にもならん答えではなく、「こうあるべきだよね」という答えが欲しい。

 

職場を見渡してみると、私と同じように人の諍いに疲れた人が、同じような態度でいることに気がついた。

とても簡単な話なのだが「いい人になる」だ。

 

“いい人”になる流れ

まずニュートラルな段階として、人間が集まれば一定数の「自分勝手な嫌われ者」がいる。ジャイアンである。これは絶対にいる。不思議なもので、いなかったとしたら誰かが次第にジャイアン化していく

 

ジャイアンは自分勝手で他人の気持ちを慮るような能力が欠如しているので、常に人間関係のトラブルを生み出す。

そんなジャイアンに対して周囲の人は、ふたつの反応を迫られる。

①抵抗する

②受け入れる

それこそ人によるだろうが、まあ私の観察範囲だと多くの人は②を選択する。こちらの方がエネルギーの消費が少なくてすむからだ。

これがつまり「いい人になる」だ。

相手の多少の横暴も矛盾も人間的欠陥も、「仕方ないなぁ」と受け入れてあげる。そうすることで、余計な争いに巻き込まれずにすむ。

今までジャイアンに嫌な思いをさせられてきた人は、これによって学習をする。

「できるだけいい人でいれば、つつがなく生活をおくることができる。角が立たないようにすることが、なによりもリスクマネジメントになる」

ここまでは良い。別に好きにみんなが考えたらいい。

しかし次の段階がある。“いい人”であることを自分に課した人たちは、次第にこんな考えになっていくのだ。

 

「ていうか、いい人じゃない人間ってクズじゃね?」と。

その結果、無駄にいい人、が出来上がる。これが私の苦手な存在である。

 

大人しくできない“親切な人”

大人しくしている分には問題ない。しかし、いい人になろうとしすぎるがあまり、親切をばらまくようになる。いい人という正義を振り回してくる。これが非常に迷惑だ。

親切が悪いことだとは言わない。だが、親切というのは非常に厄介な行為でもあることを分かってほしい。

 

第一に、その親切がうざかったとしても無下にできない同調圧力的なものがある

もうひとつは、人によって喜ぶ親切のポイントは違う、ということだ。

 

卑近な例を挙げると、エレベーターから出てきた「親切な人」が、私のためにドアを手で押さえて待ってくれていたりする。本人は親切のつもりでやっているのだろう。温和な笑みを浮かべている。

しかし、これはその親切な人に

「エレベーターの扉を押さえさせて」

「待たせている(相手の時間を使わせている)」

わけで、急いでエレベーターの中に入らないと、失礼になる。相手に親切されているその時間が私は大の苦手なのだ。

 

時間を提供し合うのが気持ち悪い

これは結局の所、私は自分自身を相手に見ているのだろう。

私は時間を無駄にされるのが一番嫌いだ

自分で無駄遣いする分には何も思わないアホなのだが、他人に時間を使われる(例えば長話とか)と途端に「私は今、緩やかに殺されている」と思ってしまう。

なので、親切をされているときも、「相手の人の時間を奪っている」という意識が強すぎて辛いのだ。

 

また、親切をしてくる「気を使ってくれる人」に対しては、こちらも気を使わなければいけないという「付き合わないと失礼感」も苦手だ。

本来親切というのはしたい人がするものであるはずだ。なのに世の中の多くの親切は、「してあげている」とか「喜んで受け取るはず」という前提に立っていることが多く、非常に押し付けがましい。その親切に対して「いや、いらないっす」と言えば私が悪者になるだろう。こちらとしては、放っておいてくれるのが一番の親切なのに、だ。

 

親切は厄介である。お節介とも若干違う。親切という正義をばらまく人には、なんとも抵抗しがたい気持ち悪さがある。

 

もっとみんながみんなを認めて、もっと無関心に生きられたら、世界平和になるじゃないかな、とよく考える。

 

以上。