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さよならができない

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どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。

この記事を書いている3月は別れの季節である。私の家でも息子が保育園を卒園して、愛すべきじゃりン子どもと、いまいち心を開ききれなかった親御さんたちとお別れをしてきた。

 

また、会社でも異動が大量に起こる。長年従事してくれた部下や、お世話になった上司が他部署や、別の営業所へと転勤になったりする。

 

そんなときに欠かせないのが、別れの挨拶である。

そして私はこの、別れの挨拶、つまり「さよなら」が大の苦手なのだ。

 

例えば、会社で送別会があったとしよう。

数時間の飲み会では思い出話や異動先の噂などで盛り上がる。

時間が来たら締めの挨拶である。異動する本人からの言葉もあれば、上司である私からの餞の言葉もある。実はこれに関しては全然問題ない。それらしいことを言えばいいし、よっぽど関係が終わっている相手でもない限り、話題にできる思い出は腐るほどある。それに、まだ本当のお別れではない。

 

問題はその後である。

解散し、みんなが散らばってそれぞれで個別に挨拶を交わすときだ。ここで本当のさよならが訪れる。

 

みんな口々に「元気でねー」とか「たまには遊びに来てくれよ」的なことを言っている。そして爽やかにさよならをして、その場を離れている。

私から見るとみんなの振る舞いはとても華麗である。違う言い方をするならば、とても大人だ。

かたや私である。30過ぎで部下を100人超抱える私は大人のカテゴリーに当然分類されるだろう。だが、私にはみんなと同じような振る舞いができない。

さよならが言えないのだ。

いや、言える。言えるのだが、「ありがとうございました。本当にお世話になりました」的なありふれすぎた定型文が自分の口から流れ出ている間、頭の中の別の自分が「なに空々しいこと言ってんだよ」「うっわ、さぶっ」「それ誰でも言えるから」などと茶々を入れてくるのだ。

これはつまり私自身が同じことを他人に言われたときにそう考えているからに他ならない。世の中はこのような定型文を使う機会のなんと多いことか。

 

しかも別れを惜しむような態度を取らなければならない。それが慣例になっている。これも苦行だ。

私の感覚から言うと、別れを本当に惜しむような人ってのは稀だ。家族と友人以外ではちょっと考えてみても思いつかない。

だけど別れを惜しんでいるような雰囲気を出す。どこかで聞いたような言葉を吐き出す。相手もそれに応酬するように定型文を繰り出す。

そうやってみんなこなしている。

 

でも本当に別れが惜しいのであれば、連絡を取ればいい。会う約束をすればいい。日程を決めればいい。ToDoリストに入れればいいじゃないか。今の御時世、他人と繋がらない方が難しいくらいだ。

でもそれでも「別れ」を選んでいるということは、つまり「あなたとの関係はここで終わっても問題ないレベルです」と宣言するに等しいのだ。

だから私はさよならができない。

フェードアウトをするか、わざと軽々しく「じゃっ」みたいな感じで済ませてしまう。「最後なのにそれかよ~」みたいなツッコミを入れてくれれば、自然とお別れができる。というかこれしかしっくりくるパターンを知らない。

 

繋がりやすくなった世界に生きる私たちは、本当のさよならができなくなった。

できるのは任意のさよならだけである。

私たちは、フォローするかどうかを決めるのと同じように、相手とさよならするかどうかも決めなければならなくなってしまったのだ。

 

それが無意識にできる人が羨ましくて仕方がない。

 

以上。