ポンコツ、語る
私のようなブロガーに限らず、何かを生み出すという行為は非常に負荷が掛かる。偉そうな表現をするならば“創造”というやつだ。何が偉そうなのか知らんし、別に創造してる人が偉いとも思わんが、頑張っている私のことは誰か「偉い」と褒めてくれ。
で、この“創造”というやつなのだが、日常的に行っていると脳みそが火を吹きそうになるぐらい消耗する。少し前まで私は自分に「ブログは毎日更新」を義務付けていたのだが、いつの頃からか完全に燃え尽きてしまい、今では月に10記事ぐらいしか書けなくなってしまった。どうしようもない奴である。
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創造できなくなると、消費を利用する
まあそんな私のダメエピソードはどうでもいいとして、創造についてである。
創造というからには何からしらを生み出さなくてはならないのだが、本当に新しいものを生み出そうと思ったら、相当な能力が必要だし、そんなアイデアに出会う運も必要になるだろう。
で、そんなときに人は“消費”に走る。
これはどういう意味かと言うと、既存のもの、つまり自分が知っていたり、経験値として持っているものを使うようになるのだ。
ネタの使い回し。パターンを変えただけ。持っているものを出すだけ。
消費的創造
これは非常にラクである。
だって、自分が持っているものを出すだけなのだから、こんなにお手軽な創造行為はないだろう。
人から見れば創造行為でも、創造している本人からすれば、自分の引き出しから品物を取り出しているだけである。凄いと思っているのは見ている人だけで、提供している方にとっては当たり前のことなので冷めている。まるで観客と手品師のような関係である。
でもご想像の通り、この“消費的創造”にも限界がある。
いつか使い切ってしまうのだ。
こうなったらヤバイ。死に物狂いで新しい引き出しを作り出すか、もういっそのこと、本当に“消費する側”になるか、である。生み出す側から離れれば、苦しむことなどない。
そういつだって、消費は簡単で、創造は難しいのだ。
人は自然と低い方へ流れるようにできている。ラクな方へラクな方へと流れ落ちていく。本人にその気がなくとも、である。
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創造しよう。楽しむために
別にどんな生き方をしようがその人の自由である。このブログでは腐るほどこのセリフを書いてきた。消費するだけの人間になるもならないも、その人の自由である。
だが、消費するというラクを覚えてしまうと、創造する力が加速度的に失われていくのだ。もう一度立ち上がるには、相当なエネルギーを必要とする。
だからこそ、慣れ親しんだ方法や知識だけではなく、普段の自分から少し離れたものにも手を伸ばすクセをつけるべきである。または、少々の負荷がかかってもいいから、より創造性の高いものを生み出せるよう努力するべきである。
そもそも作り手であること自体が負荷なんだけどさ。しかも世の中には、楽しんで作り手になれちゃう化物みたいな人もいるみたいだから困る。
こんなブログだけど、それなりに苦労して創造している部分もあるのだが、分かってもらえるだろうか。もしそうであれば、こんな幸いなことはない。
そして、分かってもらえようがそうでなかろうが、私が生み出すことを止めることはないだろう。
なぜなら、難しいからこそ楽しめることを、私は知っているからだ。
良いものが出来たときの、ひとりで思わずガッツポーズをしてしまうような興奮は、乗り越えた人にしか味わえないものだ。
以上。