普段あまりテレビを観ない。
時間が無いし、本を読む方が好きだし、そもそも観ないようにしているのもある。
だが基本的に面白いものや知的刺激をくれるものは大好きなので、いくつかの番組は欠かさずに観るようにしている。
その中でも特に好きなのが『橋下×羽鳥の番組』である。
勉強になる
学もなければ知恵もなく、質の良い情報を集めることもできない私にとって、この番組は非常に刺激に満ちたものだ。
世の中の問題、それに対する意見、それぞれの考え方など、勉強になることが多い。特に興味深いのは、ひとつの問題を取っても、どれだけ頭の良い人が揃っていてもなかなか答えはひとつにならない所である。
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日常生活の議論
私のような一般人の場合、人と議論をするような機会はほとんどなく、あえて言うならば会議のような「問題に対する話し合い」が近いものだと思われる。
扱うのが社会問題だろうが、会社の備品が盗まれるという小さい問題だろうが(当事者としては小さくないけど)、「問題を解決するためにみんなで考える」という姿勢は変わらない。議論も会議も話し合いも同じようなものだと認識している。
ただ、これがなかなか難しい。
どんな人でも不利益を被りたいなんて思っているわけもなく、話し合いをしているつもりが、気がつけばお互いに責任のなすりつけ合いや、仕事の押し付け合いになるのはしょっちゅうである。
それでも話し合う。事実をみんなで整理し、納得し、共有し合う。不完全ながらも、ベターだと信じる答えを見つけようとする。
自分の都合と相手の都合を天秤に掛けながら、不満を押さえたりしながら、少しでも“良くなるように”と考える。信じる。
それが私の日常にある議論の姿である。
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負かしたいだけ
でもメディアで見かける議論は、ただの口喧嘩に成り下がっている。
先日、『橋下×羽鳥の番組』に出てきた、コラムニスト「ケビン・クローン」の紹介が「ディベートで負けたことがない」というものだった。
その紹介を見たときから嫌な予感がしていたが、この人は典型的な「議論で話し合いをしない人」だったのだ。
テレビの討論番組を見るたびに思うのだが、有識者と呼ばれる人たちの喋りは不快だ。
相手の持論を認めることを負けとでも思っているのか、とにかく否定否定否定。思うように話が進まないと大きな声で反論する。感情があまりにも乗りすぎていて、こちらも出来る限り話の中身だけを聞こうとするが、非常に難しい。不快さが先に立ってしまう。
勝ち負けだけを追い求める議論はただの口喧嘩と何も変わらない。
受け入れと主張のバランス
自分の主張があるのは立派だし、頭が良い人だからこそ自分なりの理想を見つけやすいのだろう。他人にそれを理解させたくなるのだろう。
だけど、自分にとっての理想は相手にとっての理想ではない、ってのは中学生でも分かること。どれだけ大声でそれを訴えたところで、相手の話を遮ったところで伝わるものじゃない。
みんなプライドが高すぎて議論で勝つことしか考えていないけど、実は相手の話をしっかり聞いて、受け入れることの方がよっぽど立派だし賞賛される態度なんだよ?
言うことは言うし、言うのであれば相手の言い分もしっかり聞く。それができない人間は議論の場に立つべきじゃない。
その点、ケビン・クローンの前に出演していた映画監督森達也の態度は素晴らしかった。
橋下徹の話も聞くし、自分の意見も言う。突っ込まれるような質問にすぐ反論するわけじゃなく、ちゃんと考えて答えていた。これができない人があまりにも多い。相手の質問にすぐに答えないと負けた気になってしまうのか、とにかく勢いで誤魔化そうとしてしまう。
別にいいんだよ。痛いところを突かれたって。考えが甘い部分があっても構わないだよ。次はそこを補強すればいいんだし。どれだけ言葉を尽くしたって、誤魔化そうとしているのは周囲に伝わるからさ。
観客もそれを求めてる
ひろゆきや橋下徹の論破動画が人気だ。
つまり大衆の多くがそういった「間違っている人間がやり込められている所を見たい」という欲求を抱えているのだろう。罪人には罰を。愚か者には痛い目を。正義が悪を駆逐する、そんな場面を求めている。いくつになっても戦隊ものに夢中になっていたあの頃から変わっていないのだろうか。それとも変われないのだろうか。ガンダム観ろよ。
たぶん、そういう人たちは格闘技の試合を観ているような感覚で、それはそれでエンタメだとは思うが、やはり建設的ではない。
討論番組と呼ばれるようなものであれば、何か観ている人の知識や見識を深めるような内容であってほしいと思ったりする。
以上。