どうも。
林真理子氏のこちらの作品を読んだ。
野心のすすめ (講談社現代新書) | ||||
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なんというか、非常にこってりとした脂っこいものみたいな作品であった。彼女の著作を読んだのは初めてなのだが、他のエッセイもこんな感じなのだろうか。彼女のメンタリティに圧倒されった。心に火をつけられるというか、焦燥感に駆られているような感じもするので、尻に火をつけられるというべきか。とにかくかなり刺激的な作品であった。
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惨めな思いが野心に火をつける
林真理子氏が言うには、「苦労は買ってでもしなさい」ではいけないそうだ。
若いうちの惨めな思いは、買ってでもしなさい
これである。なかなか強烈な言葉じゃないだろうか。
現代人はスルーする能力が高いので、“惨め”と感じるほどまでに何かに執着することはあまりないのかもしれない。
他にも、自分が劣っていることを「受け入れている風」に装うことで傷つかないように予防線を貼っていたりする。例えば普段の会話の中や飲み会の席などで「俺って童貞だからさ~」とたびたびネタにする奴である。
メンタルが弱い人がいるのは認める。傷ついたら立ち直れない人が、惨めな思いをしようものならただでさえ多い自殺者がさらに増えてしまうので、そういう人はわざわざ危険に飛び込むことはしなくてもいいと思う。
だが、メンタルが弱いことと傷つくことを恐れることは違う。たぶん、みんな傷つくことを恐れているから「私、メンタルが弱いんです。弱者なんです」という言い訳を使うのだろう。
最初から勝てる人などいない。上を見上げて、悔しい思いをし、惨めな自分に嫌気が差すことで、自分の立ち位置を知り、身の丈にあったスタートが切れるんじゃないだろうか。
まあ何よりもやってみることが先決である。そうじゃなきゃいつまでも自分の未熟さには気付けない。逆に自分の才能に気付くことだってできないのだから。
やってしまった後悔は日々小さくなるが、やらなかった後悔は日々大きくなる
三流は気持ちいい
年を取っても、三流仲間は自分を出し抜いたりせずに、ずっと三流のままでいてくれるだろうという安心感。周りはみんなぼんやりしていてプレッシャーもないし、とにかくラクですから居心地が良い。三流の世界は人をそのまま三流に引き止めておこうとするやさしい誘惑に満ちているのです。
これは私も薄々勘付いていた。三流というのはとかく群れがちである。人は元々群れをなして生きてきたので、そういった状況を作ることで安心感を得やすい生き物である。
しかし野心を持って突き抜ける人というのは、当然慣れ合いよりも飛び出すことを優先する。群れている場合ではないのだ。
私はいつも思うのだが、人が失敗したりする一番の原因は「気持ちよさ」にあると思っている。なぜだか分からないが、人間が「気持ちいい」と感じることのほとんどが人を駄目にするものだったりする。群れることで得られる安心感も結局は「気持ちいい」である。
つまるところ人は「気持ちいい」を手に入れるために生きているのだが、簡単に手に入る「気持ちいい」ほど人を誤らせる。しかもすぐにはその過ちに気付かないくらい徐々に心や人生の方向性をねじ曲げてしまう。
本来ならば人間が努力したり、人のためになることをしたり、頭を使ったりすること、そんなことにだけ快楽を感じるように脳みそが機能するべきだと思うのだが…。まあ言っても仕方ないがな。
自信が自分を救うことだってある
成功するということは他人から認められることである。しかし他人から認められるまでは何を支えに仕事をすればいいのだろうか?
「私なんて大した人間ではありませんから…」という謙虚な気持ちは大事だし、人から嫌われないための予防線だと思うが、それはモチベーションにはなりえない。ただのマナー程度のものである。
たとえ根拠が薄い自信でも、自分を信じる気持ちが、辛い局面にいる人を救ってくれるということはあると思います。
となるとやはり、頼りになるのは自分以外にいないだろう。
たとえ根拠がなくても(本書では“薄くても”という優しい表現を使われているが)、「私は大丈夫だ」という自信があることで、心を支えるに足るだろう。今の私がまさにこれである。
自分の話になって申し訳ないが、私はブロガーとしては全然成功していない側である。同じような時期にブログを始めた人たちは、みんなあっという間に遥か彼方へと行ってしまった。
置いていかれた自分、藻掻いても藻掻いても結果を出せない自分。他者から認められない、ということはこんなにも辛いことなのかと思い知った。
しかし、それでも何とか続けて結果を出してみたい。「自分は大丈夫だ」という根拠の薄い自信が今の私のささやかだが、しかし確かな支えになっている。
自分が自分を救うなんて、こんなにエコなことはないだろう?
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他人を貶めないこと
上手く成功できない人たちが成功できた人を見ると、どうしても嫉妬の念にかられる。しかし嫉妬することは醜いと自分で分かっているので、それを「あいつはここがダメだ」と批判、いや非難…みたいなもので代用するのだ。私はそういう人たちを見ると本当に「格好良いな」と思うのである。
当時、さんざん悪口を言う人たちがいましたが、成功した人を貶めようと負け惜しみを言う人間は、自分がどんなに卑しい顔をしているのか知らないのでしょう。そして、彼らはもう誰一人として第一線には残っていません。野心は持っていても、実際に行動に移せなければ結果は何も残らないのです。
ここでも「気持ちいい」が登場している。
成功している、つまり自分が欲しくてたまらないものをすでに手にしている人間の「至らない部分」を指摘するのは、相手を貶めているようで気持ちいいのである。
そうやって相手の欠点に気付けるのであれば、そこを「あの人のここはダメな部分だから、そこを気をつけるようにすればもっと成功できるかも」という視点に切り替えれば自分に還元できるだろうに、目先の気持ちよさを求めるばかりに身近な誰かと共有するだけで終わってしまうのだ。
成功していない私でも分かることだが、「誰かを貶めている人」に成功している人はいない。つまり誰かを貶めいている時点で成功への道は閉ざされているのだ。ご愁傷様である。
濃厚すぎて感化されずにはいられない
感化されすぎて、記事の文字数が凄いことになりそうなので一旦ここで切り上げるとする。それにしても、こんなに濃い本を書くとは林真理子は只者ではないな。(私が今まで知らなかっただけ)
私はいつも、つまらない本に当たらないようにするために好きになった作家の本を追いかけるようにしているのだが、 今回はなんとなくタイトルに惹かれて手に取った。
きっと私が今までどおりの選び方で本を探していたら、この本に出会うことはなかっただろうし、こんな気持ちになることもなかっただろうと思う。
たとえ「本選び」という小さな冒険であっても、自分の糧になることがあるんだなぁ、と今更ながら気付いたのであった。
以上。
野心のすすめ (講談社現代新書) | ||||
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