どうも。
今回は自分の心が歪んだ瞬間に立ち会った話である。
私の現状
まず話の本題に入る前に私の現状についてお話をしたいと思う。
「お前のことなんかどうでもいい。さっさと本題に入れ」という方もいらっしゃるかもしれないが、まあ聞いてほしい。
つまらないブロガーの絶対的ルールとして「前フリが長い」というものがあるが、私も当然そのルールを踏襲しているので悪しからず。
私はこのはてなでブログを書き始めてそろそろ4ヶ月が経とうとしている頃だ。特に目立った結果を出せたわけでもなく、日々ブログを更新し続けながらも低迷し続けるPVにため息をつく毎日である。
ブログをやっていない方にPVというものを一応説明しておこう。
PV(ページビュー)というのはそのブロガーがいかに世の中で必要とされているかを測るためのひとつの指標であり、ブロガーがポンコツであればあるほどその数字に一喜一憂するというものだ。人によってはPVを戦闘力と誤解しがちだがあくまでも指標のひとつに過ぎない。ただ私はPVをブロガーの戦闘力だと思っているし、そもそもPVの正確な意味は知らないので、興味があればぜひ調べて私に教えて頂きたい。すぐに忘れてしまうだろうが。
話が逸れた。
今現在、当然ながら私はポンコツブロガーなのでゴミのようなPVである。どれくらいゴミかと言えば、ちゃんと調べたことはないが、体感的にはこのブログのPVの半分くらいは私自身のものだと思う。残りの半分は私の両親じゃないだろうか?
それくらいPVが少ないのが私の現状である。
スポンサーリンク
PVが少ないとどうなるか
これだけ毎日のようにブログを更新し続けているにも関わらず、PVが上がらない。誰からも必要とされなくなるとどうなるかご存知だろうか?
とにかく人恋しくなる。ネットの海の中で遭難しているような気分になるのだ。
「なんでもいいから誰か反応してくれ!」
「俺はここにいる!」
「助けてー、助けてー」
そんな気持ちを込めて、しぶとく記事を更新し続けるものの相変わらずの毎日。
次第に私の精神は壊れていった。
少しでも自分のプライドを守るために、「PVが少ないことを受け入れている自分」を演じるようになる。内心は全然受け入れていないのにも関わらずだ。
会社に出勤する途中に落ちている犬のフンを見ては、「きっとこれの方が俺の記事よりもPVが高いんだろうな」と考え、自虐に徹してみたりした。
「センスが無い人間とある人間がいるのは当然のことじゃないか。PVが上がらないのも自分が特別な人間じゃなかっただけの話だ」とよく分からない悟りを開いてみたりした。
「PVがなんだ。そんなに俺が嫌いなんだったら、こっちから願い下げだ。この先俺がどれだけすげえ記事を書いても読ませてやらねえからな」とブロガーとしては本末転倒も甚だしい逆ギレをしてみたりした。
しかしどれだけ自分の心を誤魔化そうとしても無理だった。
私は心の底からPVが欲しかった。誰でもいいから私を必要として欲しかった。
垂らされた蜘蛛の糸
PV地獄で苦しむ私の元に、ある日遂に蜘蛛の糸が垂らされる日が来た。
それは私がかなり前に書いた記事に対しての批判コメントであった。
その中身は非常に手厳しいもので、私のことを「何も分かっていないバカ」と激しく罵っていた。
これを読んだ私の気持ちを正直に伝えようと思う。
俺のブログに、人が…いた…っ!!
まるでその時の気持ちは、ずっと寂しい思いをしていた漂流者が、無人島の中で原住民と出会ったようであった。
相手が私を嫌おうが好こうがまったく関係ない。ただただそこに人が、命が存在していているだけで嬉しかったのだ。
批判さえも喜びになる
私がブログを書き始めたのは、不労所得を得るためだった。
しかし記事を書き続ける内に次第に「人の心を動かすものが書きたい」「誰かの役に立ちたい」という思いに変わっていった。確かにお金は欲しいが、それよりも自分が存在する意味や生きがいのようなものを味わいたいと思うようになったのだった。
ブロガーである以上、これは誰もが感じることだと思う。
だからこそ誰かの反応が欲しくなるし、孤独を抱えたままではいられないのだ。
そもそも孤独に耐えられる人間はわざわざこうやってネットに文章を放り込むことなんてしないと思う。自分の中で完結してしまえるはずだ。
批判だったとしても、私の存在を貶めるような言葉だったとしても、それでも私は嬉しかったのだった。ある種、この状態は無敵とも言える。大抵の人は批判されることで傷ついていしまいがちだからだ。
ちなみに別に私はMではないので勘違いしないように。
スポンサーリンク
孤独はひとを狂わす
とまあそんな感じで私はPVのあまりの少なさによって、孤独に苛まれ、その結果無敵状態を手に入れるに至った。ちなみにこの無敵状態はまだ続いている。
ただ、これについてひとつ気付いたことがある。
というのも、誰かから賞賛されることよりも、批判されるようなことの方が簡単にできてしまうのだ。
私の職場で会社の備品に傷を付ける、という悪戯が続いたときがあった。犯人が分かったわけではないのだが、たぶん想像するにその人は誰かの反応が欲しかったのだと思う。批判だろうがなんだろうが、とにかく自分の存在を認知してもらいたかったのだと思う。
それはまるで、両親から相手にされず、寂しさのあまりに悪戯を仕掛ける子供のようである。
これと同じことが世間でも横行していないだろうか?
孤独が平気だったり、耐えられる人というのは実は少ない。多くの人が誰からから必要とされたいし、愛されたいはずだ。
今の世の中の流れは特定の人だけがもてはやされ、愛され、賞賛される傾向があると思う。
そのために、世界の片隅で(本当は片隅でもないのだが)「自分は誰にも認めてもらえない」と苦しんでいる人があぶれてしまっている。
そんな人が誰から注目や反応してもらうために、過激な言葉を吐いたり、傷つけるような言葉を使ってみたり、悪意をばら撒いたりするのかもしれない。
凄い人を賞賛するのは誰もできることだ。だからこそ、凄くない人や注目されていない人を、賞賛したり認めてあげることが今の世の中にはもっと必要なのだ。
そんなことを、自分の心が歪んだときに思った次第である。
ということで私のブログをもっと褒め称えてくれ。
以上、健闘を祈る。