俺だってヒーローになりてえよ

何が足りないかって、あれだよあれ。何が足りないか分かる能力。

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卒業式で泣いていた女子は今でも泣いているのだろうか

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駄文である。

自分ではどうにもできない悪癖

私には忌むべき悪癖がある。

それは泣いている女性を見ると急速に気持ちが冷めてしまうことだ。

女性が目の前で泣いていたら、男としては「何か力にならねば!」と奮い立ってしかるべきなのに、私と来たら「あぁ…そうですか…」と引いてしまう。

癖というだけあり、これは自分の意志ではどうにもならない。お菓子を食べたら美味しいと感じる。全力で駆け抜けた後は爽快感が体を満たす。黒人を見たら「黒っ!」と思う。そして女性が泣いているのを見ると冷める。それぐらい私にとっては普通のことなのだ。

 

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体育祭の思い出

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この悪癖のキッカケは中学の時。

私は中学の3年間ずっと体育祭で司会を担当していた。司会と言ってもそんな大したものではない。「青組がんばれ白組がんばれ」とか「次は綱引きです。2年生は入場口に集まってください」とか喋るぐらいだ。台本が用意されておりその通りやるだけだ。目立つ役割ではあるものの、緊張さえしなければ誰にだってできる。

この体育祭の司会というのは男子と女子の1名ずつで行われる。

3年の体育祭で一緒になった女子はやる気マンマンだった。中学最後の体育祭で大役を果たし、いい思い出にしようと張り切っていた。

私はといえば、もうすでに3回目の司会。特に緊張することもなく、平常通りのテンションで臨んでいた。思えば最初から彼女との意識の差は気になっていた。

体育祭は無事に終わり私と彼女は、テント内の放送機材の片付けを行なっていた。周りには誰もいない。別に仲良くもなんともない異性と2人きりという状況は、なかなかに気まずいものだった。私は「さっさと終わらせよう」と黙々と作業を続けていた。

それはそのときに起こった。

彼女はテント内の放送席に座り込むと、ひとり静かに泣き出したのだった。

私に背を向け肩を震わせていた。

困惑する私をよそに彼女は自分の世界に入り込んでいる。その背中には「さよなら、私の青春…」と書いてあるようだった。完全に青春ドラマのヒロインになりきっていた。きっと片付けのことなど頭の片隅にもなかったことだろう。

あのときの感情を言葉にするのは難しい。だが、ひどく冷めた気持ちでその背中を眺めていたことはひどく記憶に残っている。

しばらくするとテント内を飛んでいたハエが一匹、泣いている彼女の肩に止まった。

それを見た私は「そんなもんだよな」と、諦観にも似た気持ちを抱いたのだった。

高校の卒業式

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クソみたいな高校生活を送っていた私。卒業式にはこれといって感慨はなかった。

しかし周りの生徒たちはそんなことはないようで、特にクラスの女子たちは泣きじゃくっていた。

その様子を見た私は例によってひどく冷めた気持ちになったのだった。

「何を悲しむことがあるんだ?またヒロインを気取ってんのか?」

そんなふうに思い、卒業式の帰りに当時の彼女にそのまま伝えたところ、

「友達と離れ離れになるのが悲しいんだよ」

と反論された。まったく納得いかない私はすぐさま、

「いやいや、会えばいいじゃん。そんなに仲がいいんだったら」

と反論した。

「そうだけど、学校にいたときみたいに毎日顔を合わせられるわけじゃないじゃん」

彼女はそう言ったが、私には「毎日顔を合わせたくなる」ような友人はいなかったので意味が分からなかった。

 

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今、思うこと

今にして思えば当時の私はとにかく冷めていた。

文化祭で盛り上がる同級生の輪に入ることもせず、ひたすら赤ちゃんと僕やはじめの一歩を読み漁っていた。

体育祭でクラスのみんなが綱引きをしているとき、私は同じようなクズたちとUNOに興じていた。

私は彼らの「私たち青春真っ最中!」的な顔を見るのが嫌いだった。青春に酔っている姿や青春を謳歌しているふうを演じている姿が醜く感じて仕方がなかった。

酒は飲んでも飲まれるなとよく言われるが、青春にも同じことが言えると思う。青春というのは意識して謳歌するものではない。意識しない普通の毎日があとから青春だと思えるだけだ。

青春に溺れている姿は醜いのだ。そして本人たちに溺れている意識がないのが余計である。

お前は主役ではない

クラスの行事にことごとく参加しない私は、クラスの中で浮いてはいたものの決して中心的存在ではなかった。意図的に端っこにいたところはあるが、意識したところで中心には行けなかったと思う。主役になれる器ではなかったのだ。

それを認めたくない私は「ひねくれ者」という役割を演じることに徹したのだと思う。

この役で居続けるかぎり、「自分は主役ではない」という事実と向き合わずにすむ。

悲しいかなこれは今でも変わらない部分でもある。私はヒーローではないのだ。

今でも泣いているだろうか?

話を戻す。

卒業式で泣いていた彼女たちは、あの場の主役だった。そして主役ではない私はそれを冷めた気持ちで見ていた。

彼女たちの涙が本当のものだったのか、それとも私が感じたようにその場限りの「なんとなく」という涙だったのかは分からない。

当時の彼女が語っとおり、失ったものを悲しむ気持ちから素直に流れた涙だったのかもしれない。

学生時代に失ったものは取り返せない。あの輝き(確かに輝いていた)は完全に失ってしまった。

それを悲しんでいた彼女たちは今でも泣いているだろうか?泣いてはいないとしても、今でも悲しんでいるだろうか?

きっと時折思い出すことはあっても、いつまでも引きずってはいないだろう。

逆に私はいつまでも彼女たちの泣き顔を引きずっている。そしてどんなときも「状況に溺れる」ことができない自分を不幸だと思う。

失ったものと未来の作り方

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きっと卒業式や体育祭で涙を流した彼女たちは、大事なものをその都度失くしてきたのだろう。

失ったものがあると新しいものを取り込みたくなる。新しい環境に染まっていくことだろう。失ったものでできた心の穴を別のもので埋めるわけだ。

逆にいつまでも冷めていた私は自分のちっぽけな自尊心を守るために、いつまでも何も失うことができず、いつまでも変わらないままなのだ。

 

未来とは今とは違う状態のことを言う。

変わることができなければいつまでも未来には行けない。

つまり、失うものがなければ未来に行くことはできないのだ。

 

卒業式で泣いていた彼女たち。今はもう泣いていないだろう。

あのとき泣けなかった私はいつ泣くのだろうか?