どうも。
私には特別な能力はない。仕事ができるわけでも面白い話ができるわけでもスポーツができるわけでも金もうけができるわけでもカリスマ性があるわけでも変態性があるわけでもない。
とにかく凡庸である。
そんな私だがひとつだけ、こっそりと誇れるものがあった。
それが「善人」であるということだった。
特別な能力はないかもしれないがいい人ではある。そう思っていた。
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悪感情が止まらない
私は劣等感に苛まれることがよくある。劣等なのだから当たり前と言われたらそれでオシマイなのだが、とにかく私はそれで苦しむことがよくある。
劣等感のせいで将来を悲観し、周りを羨み、自分が持っていないものを持っている人に心の中で怨嗟の声を上げる。
また自分の境遇にすぐに不満を抱く。十分に生活できる給料を貰っているお世話になっている会社なのに、すぐに行きたくなくなるし、任される仕事のほとんどが嫌いになる。仕事のすべてが面倒になることもある。
話の長い上司に苛つき、事細かに説明しないといけないお偉いさんにウンザリし、些細なことに不満の声を上げる部下に嫌気が差し、拘束される時間の長さにため息をつく。
とにかく悪感情で毎日が満たされている。
いい人であることが唯一の取り柄だと思っていた私だが、こうやって見てみると普通の悪人だ。とんだ思い上がりである。
自分の持ち物
感情は心の排泄物だ。
綺麗なものを排泄できるようになりたいが、どうやら私の心はそのようにできていないようだ。悲しいがこれが現実であり、私の心なのだ。
人にはそれぞれ持ち物があり、その持ち物の中で人生というよく分からないものを生きていく。
時には他人の持ち物を羨んだり、自分に足りないものを嘆いたりする。
それは能力だけに限ったことではなく、心でも同じことが言える。
他人を素直に祝福できない自分。
他人に嫉妬する自分。
自分が持っているものだけで満足できない自分。
感謝できない自分。
そんなクソ野郎だとは認めたくはないが、それが自分なのだ。自分の心という持ち物なのだ。
それがどれだけのクズアイテムだとしても、配られた以上それを使っていくしかない。それを鍛えるしかないのだ。本当に悲しいことだが。
目をそらすべきではない
私は今までそんな自分の汚い部分をできるだけ見ないようにしていた気がする。だからこそ、いけしゃあしゃあと「私は善人である」などという大言壮語が吐けるのだ。吐き気がする。
ここは今一度、自分という人間を見つめるべきである。でないといつまでもクソ野郎のままである。私はクソ野郎かもしれないが、「クソ野郎最高♡」と思えるほどクソ野郎ではないのだ。向上心があるクソ野郎なのだ。そこいらのクソ野郎とは一緒にしないでくれ。
なんでもそうだ。改善したければまずは現状把握。自分はどんな人間で、どんな心のカタチをしているのかを把握しなければならない。そしてその結果、どんなに不本意な事実が出てきたとしても、素直に認めるべきである。
感情を抑えこまない
先ほども書いたように、感情は心の排泄物である。ムリに抑えこむと病気になってしまう。むしろ汚い感情が出るのであれば、さっさと体の外に出すべきである。だって汚いのだから。
素直でいることとはまるで清廉潔白でいることと同義であるかのように考えがちだが、実際は「自分の心の動くまま」という意味であり、ありのままでいることなのだ。
そして素直に自分の感情を吐き出すことで、心は自由になる。清廉潔白という鎖で縛り付ける必要はないのだ。そんなことをしても心のカタチは変わらない。余計にひん曲がるだけである。
※参考書籍
反省させると犯罪者になります (新潮新書) | ||||
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悪感情が止まらないのであれば、止まるまでひたすら吐き出し続ければいいのだと思う。どうせいつかは枯れる。
悪感情が枯れればこっちのものだ。ずっと俺のターンだ。
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表現が自分の心を満たす
ということで、私はこれからしばらく悪感情を素直に吐き出すこととする。
それがブログの記事に反映されることは間違いないだろうが、ぜひともお付き合いいただきたい。というか、そもそも『俺だってヒーローになりてえよ』なんていう嫉妬感に溢れたタイトルを付けているぐらいだ。それに見合った内容にしようじゃないか。
私にできることなんてたかがしれているかもしれないが、それも込みで私の持ち物であり、人生だ。クソみたいなものが出てきたとしても、自分の心に対して素直になったものを吐き出す(表現する)ことができれば、きっと満たされることだろう。
自分を偽ることなく、心を縛り付けることなく、満たされるために表現をしようじゃないか。
以上。駄文にお付き合いいただき感謝する。