正義とは暴力のことである。これはアンパンマンに代表されるように一般常識として認知されている。おおよそこの世の中には暴力を使わずに解決できる問題はあまりなく、現実世界を反映しているゲームの中でもそれは例外ではない。
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話が長い人と思わせる人
私の職場には話の長い上司がいる。そして私は話が長い人がこの世で一番キライだ。正確には「話長え…」と思わせてしまう人がキライなのだ。
現に私はYOUTUBEで1時間を超えるような対談番組をひたすら見ていても苦ではない。それに時間を取られることにも何も感じない。話が長いことそれ自体がキライな訳ではないのだ。
その上司にある日、我慢できなって文句を言った。「話が長すぎて頭に入りません」と。私の中にあった本当の言葉は「お前の話なんかまったく聞きたくない。人生がムダだ。一秒だってくれてやりたくない」だったので、だいぶ大人な対応をしたと思う。
話が長すぎる人の正義
しかし、私のその言葉に腹立てた上司はそこから更にヒートアップしてしまい、「なぜ自分がこんなにも話をしているのか」という話になってしまった。
その話自体もかなり長くなってしまうのだが、要するに「お前のためを思って話している」ということのようだった。
なんだこの「お前のためを思っている」という大義名分を掲げて私に不快な思いをさせるやつは。うんこすぎるだろう。お前の口から出てるのはうんこじゃないのか?そう思わせるぐらい私は上司の話を聞いているのが不快になった。
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正義はその人にとって宝石
上司の悪口はこの辺にしておこう。誰のためにもならない。
このことから得られる教訓は以下のとおりだ。
1.人は自分なりの正義を持っている。
2.正義は宝石のように完璧な魅力を放っている。(その人には)
3.自分の中にある正義の存在を疑える人は少ない。
奥さんが熱心な仏教徒なので、その関係で信仰心がすごい人とたまに顔を合わせるのだが、そういう人たちは自分たちの中に強烈な正義を持っている。そして彼女たちのなかにある正義は宝石のように完璧で、「こんな綺麗なもの、キライな人がいるわけがない!」と宝石のようにキラキラした笑顔で誇示してくれる。
しかし多くの方が経験されているように、宗教の勧誘というやつは非常に迷惑なものだ。なまじ本人に悪意がない分、余計にタチが悪い。
彼女たちは自分たちの宝石を見せつけ、「綺麗でしょ?欲しいでしょ?」と問いかける。彼女たちにとって宝石だろうが、それは他人からすれば石ころと変わらない。石ころにしか見えない人は当然拒否する。
すると彼女たちは自分の宝石を否定されたような気分になる。自分の大事なものを否定されるというのはアイデンティティの危機である。危機に瀕すると人は2つの行動を選択する。
それはつまり逃げるか、攻撃するかだ。
正義は意見でしかない
立場が違えば正義も変わる。絶対的なものなどない。このように語れば誰もが「当たり前だろ」となるはずなのに、実際に自分の正義を否定されると怒り狂う。コンクリートジャングルには主にチンパンジーが生息しているようだ。怒るとうんこを投げつけてくる。怖い。
正しさには絶対がなくて、だからこそ私たちは必死に考えなくてはいけないし、思考停止になる自分に発破をかけなければいけない。自分に疑問を投げかけなくてはいけない。答えを知った気になってはいけないのだ。
あくまでも正義はその人のその時の意見でしかない。それを分かって欲しい。チンパンジーには非常に難しいことだというのは分かっているが…。
意見の押し付けは暴力だから
自分の正義を疑える脳みそも持たず、ひたすらに意見を押し付けてくる。そりゃあ不快にもなるってもんだ。そんなの暴力と変わらないからな。
「お前のためを思って」
思えばこの言葉も非常に卑怯だ。自分の意見を正当化するための手段として「私は自分のことよりもあなたのことを考えてあげられる人間なの。そんな純粋な人間である私の考えを拒否なんてできるの?あなたはそんな心の汚い人間なの?バカなの?クズなの?」という牽制をしているのだ。こうやって改めて見るとクソだな。人のことをクズ呼ばわりするなんて。
お前の意見は分かった。だからそれを選ぶかどうかは私に選ばせてくれ。
正義という名の暴力がこの世からなくなることを願ってやまない。
そんなことを思った次第である。
以上。
これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学 | ||||
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