どうも、ひろたつです。
こちらの本の中に印象的なエピソードがありましたので、紹介します。
絶対貧困―世界リアル貧困学講義 (新潮文庫) | ||||
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本文より引用させていただきます。
ある時途上国の貧困地区に生きる人々を追う番組に携わったことがありました。プロデューサー、ディレクター、カメラマンは全員日本人でした。
この時、日本の撮影クルーはスラムの子供がゴミ拾いをして生活している光景を映して「貧困の中でも明るく元気で生きるたくましい子供たち」というテーマを形にしようとしていました。
さて、そんなスラムの中に、メイちゃんという十歳の女の子がいました。メイちゃんは病気の父親と二人で暮らしていました。母親も兄弟もいなかったのです。家計は彼女が廃品回収で稼ぐお金でなんとか成り立っていました。撮影クルーは彼女がゴミの山の中でたくましく生きる姿を追っていました。
ある時、ディレクターがメイちゃんにマイクを向けて、「どうしてそんなに明るく笑って生きていけるのかな」と訪ねました。彼女はこう答えました。
「仕事は大変だよ。けど、悲しんでいても生きていけないよ。だから、今を笑って生きたいの」
ディレクターはこのセリフにしてやったりの笑顔を浮かべました。
(中略)
私は撮影クルーが帰った後も、そのスラムに残りました。別に調べたいことがあって残ったのです。一週間、二週間と暮らしているとメイちゃんの家庭の別の側面が見えてきました。
それは毎晩十時に起きました。寝静まると、どこからともなく中年の女が髪を振り乱してやってきて、メイちゃんの暮らす粗末なバラックの壁を棒でもって叩くのです。大きな石を投げ込んだり、火をつけたりしようとしたこともありました。その度に、近隣の住人が駆けつけ、彼女を殴りつけて追い返します。ひどい時には、血が出るまで殴り続けることもありました。
最初、私は中年女性をスラムに暮らす知的障害者だと思っていました。ところが、ある日メイちゃんからこんなことを言われたのです。
「あの女性は、わたしのお母さんなの。お母さんは十人ぐらい子供を産んだんだけど、わたし以外はみんな死んでしまったの。お母さんはそのせいでおかしくなって、わたしのことを『魔女』だって言いはじめたの。わたしが赤子の生気を吸い取っているから、赤子が死んじゃうんだっていうのよ。お父さんは怒って変になったお母さんを追い出したわ。けど、お母さんはわたしを殺せば他の子供が蘇ると思っていて、毎晩実家を脱走しては殺しに来るの」
強烈です。
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◯パッケージングの裏側
テレビ番組というのは何かテーマを掲げ、それに対してメッセージを付けて視聴者に提供します。
上のエピソードで言えば、「どんな状況でも人は希望を失わない」的なものでしょうか。実際はもっと複雑で、笑顔を浮かべているからといって、その環境が笑顔に値するものかはまったくの別物。
しかし、テレビでそこまで追求することは少ないでしょう。
それはなぜか?
それはテレビを見る私たちが、それを求めていないからなのでしょう。
◯エンタメ化する社会問題
「世界のどこかで苦しんでいる子供たちがいる」
これは非常に大きな問題ですが、これでは視聴者に対して負荷をかけるだけです。大きな問題なので、みんなが考えていくべきなのですがテレビを見ている人たちはそんなことは求めていません。消耗してしまうからです。
なのでこれを
「世界のどこかで苦しんでいる子供たちがいるのは事実ですが、それなりに楽しく暮らしているので、あなたが心を痛める必要はありませんよ」
にすると、「ハラハラしたけど、良かった~」とまるで映画でも観たかのような気持ちになります。ちょっとした負荷(ストレス)とそこからの開放、という図式はエンタメの基本ですからね。
つまり、私達は社会問題を見ているようで、実際はエンタメを楽しんでいるだけなんですよね。何の解決の手助けもしていない。
◯見たいものしか提供されない
これってどうなんでしょうか?正しい姿なんでしょうか?
「視聴者が求めることを、テレビ局は提供する」というのは事実でしょう。
「社会問題を突きつけられるのはしんどい。もっとポップに仕上げてほしい」
そう私たちが思っているからこそ番組の制作サイドが応えるんですね。
話は変わりますけど、アジアのある国ではテレビ番組で今の政権政党が掲げる政策を、誰にも分かりやすい言葉で解説する番組があるそうです。それを毎度毎度、放送しているそうなのです。
国民が求めるものが提供される。
今、この記事を書いているときにテレビで流れているのは、誰かの不倫報道ばかりです。
クソみたいだと思いませんか?