お説教の時間です。
祈りとは神頼みのこと
世界中の至るところで行なわれる祈り。
私はこれが非常に気持ち悪いです。宗教観の違いがこの不快感を呼んでいるのかと思っていたのですが、どうやらそうではなさそうです。
私の不快感の原因は祈る人間の”無責任感”なんですよね。
祈る理由はさまざまですが、祈る行為はある種自分への言い訳でもあります。
「私には祈ることしかできないけど、忘れるよりはずっとマシでしょ?」的な言い訳です。
その問題を解決する手段を持たない人間は往々にして他人(どこかのすごい人)がなんとかしてくれると考えています。まさに他人任せ。しかし祈りとは他人任せどころか、神頼みのことです。
神というなんかよく分からない私たちを超越した存在がなんとかしれくれないかな?ということです。う~ん、素晴らしい。
神はなにを思うか
特定の宗教を持たない私には神がいません。倫理観とか良心とかいう謎の感情がある種私にとっての神かもしれません。
そんな神についてなんの知識がない私が勝手に神様の気持ちを考えてみましょう。
彼には意識があります。そして人々の祈りも届いているとしましょう。こんな風に。
「世界が平和でありますように」
「あの人と結ばれますように」
「この子が幸せな人生を送れますように」
「貧困をなくしてください」
「あなたの愛をください」
「この病気を治してください」
「あいつは悪魔です。この世には必要のない人間です。どうか消し去ってください」
「イスラムが世界の宗教になりますように」
「金持ちにしてください」
「あの女を襲うチャンスをください」
「この苦しみから解放してください」
…。
これが毎日、毎秒、永遠に続きます。
神は思います。「人間は色んなことを求めているんだなぁ」と。
どれかだけを尊重することはないでしょう。ただ「人間とはこういう生き物」だと感じるだけです。
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問題は主観によるもの
どの祈りもその人にとっては切実なものなのでしょうが、それは他人からしたらどうでもいいことが多いです。世界平和という人類共通に思える祈りでさえ、人によって理想の形が違います。世の中には麻薬が世界で売れることを願っている人だっていますし、星の数ほどある宗教団体の人達は「自分の宗教が一番」と思っているでしょう。
問題とはその人の主観から発せられるものなのです。日々あらゆる角度から放たれる祈りを観察している神はその事実にいち早く気付くことでしょう。「みんな自分のことしか分からないんだなぁ」
つまり崇高な気がする「世界平和」という祈りも、「好きな子と一発やりたい」という欲望も変わりないということです。
願いも祈りみたいなもんです
途中から混同してきましたが、祈りも願いも同じです。自分の求める形に勝手になってほしい、ということですね。
そこには何の責任感もなく、世界への影響もありません。
祈るぐらいなら、それを街なかで大声で叫んだ方がまだ影響があるでしょう。まあそんな方法だとただの悪影響で終わるかもしれませんけどね。
祈りなんて無責任な行動をしているぐらいなら、なんでもいいから発信しましょう。
周りの人と議論するでもいいし、ネットで発言するでもいいし、NPO法人に寄付する形でも、新しいことにチャレンジするでもいいです。いや、犯罪を促しているわけではなく。
正しいと思うことがあるのなら、なにかしらの形にしなければいけません。そうでないのただの欲望と同じ扱いになってしまいます。
行動を起こすと責任が伴います。責任を持つことで初めて世の中に何か価値が生まれるのです。もっと責任を持ってください。
その祈り、神様は興味ありませんから。