イヤな笑い
日本人には人の失敗を嘲笑う風潮があります。外国人のことはよく知りません。
私は性格上、自分のいる場所から笑いが失われることを極端に嫌います。
これは若干病的なほどでして、仕事でどんなにヤバいミスがあっても、どんなに緊急の事態になっても冗談や皮肉を言って周囲に笑顔を生み出さないとと気がすまないのです。
そんな私ですが、人を嘲笑することも嫌いではありません。むしろ周囲を笑わせるためなら進んでそういったネタを取り込む癖があります。
ですがある一線を越えると、途端に不快感に襲われます。
集団になると笑えない
この嘲笑ってやつを内輪だけでやっているのはいいのですが、人数が増えてきたり、その空気が全体的に広がってくると”笑えなく”なってしまいます。たとえそれが自分の生み出した空気だとしても。
この違いはどこから来るのでしょうか?
イジメと笑いの違い
考えてみるとこの違いは「特定の対象を積極的に不快にしているかどうか?」が分かれ目になっています。
内輪だけでする嘲笑は「ただその場を盛り上げるためのネタ」です。しかしこれを大人数でやったり、全体の空気にしてしまうとこれはただの「イジメ」や「排除」といったものに成り下がります。これは笑いにはなりゃしません。誰かを傷つけることが楽しいなんてことはないでしょ?余程の変態でもないかぎり。
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相手を受け入れているか
もう一つポイントがあります。それは「相手を受け入れているかどうか?」です。
これは侮蔑や見下す感情から特定の対象を”嘲笑”するのではなく、「こういう違いがあるから面白いよね」という見方を提示するものです。
ビートたけしが何かで書いていた話です。
「やーい、お前右手無いんだな」
「うるせえ。お前だって頭悪いじゃねえか」
この関係性は笑いになりますよね。
相手を排除しようとする笑いなのか、相手を受け入れた上での笑いなのか。これが重要です。
みんな同じは気持ちいい。でもそんなあなたは気持ち悪い。
よく言われることですが、日本人は「同じ」であることを他人に求める空気があります。
規律やマナーといった点ではそうであるべきですが、個性や違いといった部分にまで干渉してくるのはかなり気持ち悪いですよ。
逆説的ですが、そもそも違いがなければ同じもありえないわけですから。
みんなが同じであることは「自分はこれでいいんだ」という安心感に繋がるので、気持ちいいのでしょう。そして異分子は「自分はこれでいいのか?」という自分自身の存在を揺るがすものなので攻撃したくなるんです。間違いない。
もっと本当に面白いことに目を向けましょう。他人との些細な違いを嘲笑うよりも人生を充実させるものがたくさんありますから。