どうも。
私は年がら年中小説をむさぼり読んでいるのだが、ときおり「これは!」という駄作と出会うことがある。
小説というものは、その性質上最後まで読まないと価値が分からない場合が多い。最初は全然面白くなかった話が、後半に入った途端うなぎのぼり的に盛り上がる場合がある。そうなると、前半がつまらなかったことが逆に布石になり、余計に「いい作品に出会えた」と思えるものだ。
しかし中には最初から最後までずっとつまらないものもある。
私は速読技術を持ち合わせていないので、文庫1冊を読むのに大体2時間から3時間はかかってしまう。
なのでそうした「最初から最後までずっとつまらない作品」を2,3時間かけて読んだ結果、「やっぱりつまらなかった」という成果を得ることになる。正直、この瞬間は死にたくなる。
今回紹介するのはそんな私の精神を殺しにかかってくる小説である。
つまるところこの記事は、殺された私の精神の墓みたいなものだ。無念の思いを抱えたまま死んだ私の気持ちをここで供養させてもらいたい。そうでなければ永遠に浮かばれることはないだろう。
いらぬ怨念をこの世に撒き散らすよりも、さっさと葬り去ってしまうほうが世のため人のため、というものだろう。
ぜひお付き合いいただきたい。
※この記事はネタバレを含みます。未読の方はご注意ください!
スポンサーリンク
あらすじ
映画化もされ、みんなが大好きな藤原竜也が殺人犯役という謳い文句もあり、すでに有名かもしれないが一応紹介しておく。
「この男を殺して下さい。名前・清丸国秀。お礼として10億円お支払いします。」という衝撃的な広告が全国の主要な新聞に一斉に掲載された。掲載主は政財界の大物・蜷川で、自分の愛しい孫娘を殺した清丸の首に懸賞金をかけたのだ。
隠匿者にまで命を狙われた清丸は逃亡先の福岡で自首。警視庁は清丸の身柄を48時間以内に東京に護送すべく、銘苅・白岩など5人の精鋭を護衛に付ける。更に機動隊員350人で高速道路を東京に向け出発する。しかし清丸への憎悪と懸賞金に目がくらんだ一般市民だけでなく、警察官・機動隊員までもが清丸をつけ狙う。
非常に魅力的なあらすじである。そしてこれがこの作品の全てである。これ以上のものは何ももたらさないのだ。
同じことを何度も繰り返す物語
あらすじにもある通り、日本全国民が殺人犯清丸の命を狙いにやってくる。
その様子を描いたのがこの作品である。
スリリングな展開を期待するのが人情というものだろう。このあらすじでそれを期待しない読者などいないと思う。
確かに作中では、警察と清丸を殺しに来る誰かとの行き詰まる攻防が続く。とにかく続く。ひたすら続く。色んな人が、ずっと、同じことを、繰り返してくる。同じことを繰り返してくる。繰り返してくる。リピートもリピート。手を変えず品を変えず、ひたすら同じ展開の連続。もう死にたくなるほどだ。
文庫版で350Pあるのだがその間中ずっとである。長編作品でこれはむしろ画期的かもしれない。
普通、物語というものは起承転結に代表されるように、流れや起伏があってしかるべきだ。だがこの『藁の楯』の中ではずっと「承」である。
短編集ならまだ分かる。同じことを違うパターンで楽しむという形式はある。
それを長編作品でやってしまうのだから恐ろしい子である。
例えるなら、芸人が5分間ずっと同じギャグをやり続けるようなものである。やっている方は強いハートがあればそれでもいいかもしれないが、見ている方は地獄だ。
スポンサーリンク
人物の異常なまでのハリボテ感
この小説の中に人間は登場しない。すべてハリボテである。ハリボテがハリボテの命を守ったり、狙ったり、狙われたりしている。
というのも、登場人物たちに何も温度を感じないのだ。
登場人物たちはそれぞれのシーンで怒ったり悲しんだり、困ったりしているが、読んでいる私にはただただ「怒った」という文字が書いてあるようにしか感じなかった。
どうだろうか、「面白い」←これを見て笑える人がいるだろうか?いないだろう。同じように、何も感情を表現できていない『藁の楯』を見て心動かされることは何もないのだ。
読んでいる間、私の心はずっと凪の状態だった。悟りを開くには持ってこいの本かもしれない。
登場人物のこの異常なまでのハリボテ感は、技巧の問題もあるかもしれないが(作者の木内一裕のデビュー作である)、それ以上に、作者が表現をしようとしていないことに原因がある。
「えーっと、こいつがここでおかしなことをするでしょ、そしたらこいつが怒る…っと」
みたいな感じで、ただ物語の中で起きるであろう現象を並べていっているだけなのだ。
きっと作者自身もこの物語の中にのめり込んでいないと思う。ただただ言葉を並べるだけ。
読者の心を動かせなくて当然である。
武器はいっちょ前に揃えてる
物語は一辺倒。しかも展開に何のひねりもない。登場人物たちはハリボテ。作者は適当。
こうなると作品の全てに腹が立ってくる、というものだ。
私が気になったのは物語の小道具である。
具体的に書くと、例えば清丸の犯罪内容。幼女をレイプした上で殺害し、さらにはドブにその死体を捨てる、という残忍極まりない犯行を行なっている。
物語に残虐なアイテムを入れると途端に注目を集めやすくなる。これはマンガでも同じことが言える。
この設定を入れることで、作者は清丸という男のクズさを表現することと、読者の興味を引くことを計算したのだろう。それは成功したかもしれない。
だが、肝心の物語や清丸の人物描写そのものがクソなので、せっかくの設定も意味を成していない。最初から最後までちゃんと読み込んでも結局清丸の残虐性は伝わってこなかった。ただの小心者のヤンキーという感じだった。しかもひどくステレオタイプな。
作品に面白い設定を入れることは別に悪いことではなく、むしろ歓迎されるべきである。だが、この作品の場合、本筋が適当なのでそこにいくら”いい武器(設定)”を持ってこられても、童貞が隠し持っている「女を落とすテクニック」のようなもので、「その前にやることがあるだろ」とツッコミたくなるのだ。
設定のみでここまで来たのは逆にすごい
私がここまで酷評したにも関わらずこの作品は映画化という快挙を果たしている。ベストセラー小説でもなかなかできることではない。
ひとえにそれもこの作品の唯一の長所である「設定」のおかげである。ここだけは褒めることができる。
「殺人犯を殺してくれたら10億円」
これを思いついた時点で作者の勝利は決まっていたのかもしれない。
映画も好評だったようだし、映画の宣伝効果で本も売れたことだろう。
めでたしめでたし。
小説好きとしては認められない
こうやってブログを書いている以上、ブログで紹介した作品は何かしら売れた方がいい。できればこの駄作も話題性に乗っかって「評判通り最高に興奮する作品でした!キャピっ!」と嘘八百を並べた方が売上に繋がることだろう。金になる。
だが私は認めない。
どれだけ映画が好評だろうが、小説がベストセラーになって何十万部も売れようが関係ない。私は一小説好きとしてこの作品を認めることはできない。
小説にとって大切なものがあまりにも抜け落ちすぎている。あまりにも作品への愛情を感じない。
こんな駄作でも350ページを執筆するのは簡単なことでない。もしかしたら作者にもそれなりにこの作品への愛情はあるかもしれない。だがそれは私にはまったく毛ほども塵ひとつほども伝わってこなかった。私の感受性が欠落している、という可能性は無くもないが、それでもこんなに伝わってこないのは異常だと思う。
駄作というだけなら仕方ない部分はある。能力が足りないのはどうすることもできない。少なくとも現時点では。
だが適当なのは駄目だ。それは読者を舐めているのと同じだからだ。
私はこの作品を読み終わった時に「時間を返してくれ…」と本気で思った。死にたいくらいだった。
お金を払った読者をあんな気持ちにさせては駄目だ。あまりにも悲しすぎる。
スポンサーリンク
最後に
思いの丈を吐き出し尽くしたのでいくらかスッキリすることができた。もしこの駄文に付き合ってくれた奇特な方がいたら感謝したい。私の気持ちもきっと成仏したことだろう。
こうやってつまらない作品に心をへし折られることは数限りない。そのたびに心底「読むんじゃなかった」と私は思う。
だがそれでも私は懲りずに今日も小説を読み漁る。すべては素晴らしい物語に触れるためである。
色々書いたが、『藁の楯』をバネに素晴らしい作品を木内一裕が生み出してくれるのであればそれはそれで報われるとうものである。私はただただ面白い作品がこの世に生まれてくれることを望んでいるだけだからだ。
まあしばらく木内作品に手を伸ばすことはないだろうが。
以上。
藁の楯 (講談社文庫) | ||||
|
ちなみに映画の方では藤原竜也の演技が相変わらず素晴らしいと評判である。原作では薄っぺらだった清丸も、名優藤原竜也の手によってハリボテから息を吹き返したようである。