どうも。
強烈な本を紹介したい。いや、読ませたい。
全日本人に読ませたい本なのだ。
これはいわゆる読書マニアによくある自己顕示欲の現れではない。日本人が陥っている病に気付くためには、本書が必要なのだ。
そう、我々が目を覚ますための本である。
内容紹介
「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい―――正義という共同幻想がもたらす本当の危機 | ||||
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タイトルからして面白そうな匂いがプンプンするのだが、その予想は大当たりだった。まさしく衝撃。最初っからアクセル全開でこちらの価値観を破壊してくる。
この情報社会。我々はどうしても自分に都合のいい情報や、同意見、気持ちのいいものばかりを求めてしまう。
だが実際の世の中というのは、そんなに簡単ではなく、ひとくちに“正義”と言っても色んな角度から見ることができるものだ。はっきり言って難しい。
そんなことを教えてくれるのが本書である。
しつこいが繰り返す。みんなに読んでもらいたい本である。
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死刑制度を支持する人の意見
私は基本的に死刑制度には賛成だし、犯罪者への重罰化は当然のことと考えている。いや、考えていた。本書に出会うまでは。今はよく分からなくなってしまった。
死刑制度を支持する人の主な主張は以下の3つにまとめられる。
私自身が死刑制度に対してちゃんと今まで考えたことがなかったことと、詳しくないのでもしかしたら間違っている部分もあるかもしれないので、これはあくまでも私の意見として読んでもらいたい。
1.犯罪にあった被害者の人権
→残酷な殺され方をした人の気持ちを考えると、犯罪者は許されるべきではない。被害者同様の苦しみを味わうべき。被害者の未来を奪ったのだから、犯罪者の未来も奪われるべき
2.被害者家族の感情
→子どもを無残に殺された遺族の気持ちを考えれば、犯罪者に死んで欲しいと考えるのは当然。あまりにも無念すぎる。遺族の感情に寄り添うためにも死刑は必要。
3.犯罪の抑止力になる
→「死刑」という極刑があるからこそ、その罰を恐れて犯罪に手を染める人が少なくなる。死刑だけではなく、罰は重くするべき。
この3つが私が今まで「死刑に賛成」としていた理由になる。たぶん、世の多くの方が同じような考えだと思う。
それに対しての森達也氏の反論が以下になる。まさに目から鱗だった。
死刑制度支持者への反論
まず1の「被害者の人権」について。
そもそも犯罪者の人権を守ることと、被害者の人権を守ることは別のもの。どちらかを立てればどちらかが立たない、というものではない。
苦しんだ人がいるから犯罪者も苦しむべき、という意見を取り入れてしまうと、「じゃあ苦しまずに殺したら罪が軽くなるのか?」という矛盾が発生してしまう。
拷問の末に1人を殺すのと、寝てる間に注射をして本人が気づかない内に100人を殺すのが同じ罪になるのだろうか?
答えの是非は置いておくとしても、考える必要があるのは分かってもらえると思う。
同様に、被害者の未来を奪ったことが罪になるのであれば、余命残り少ない老人の命と赤ん坊、もっと言えば胎児の命の方が重いのか?という疑問が生じる。
次は2の「被害者家族の感情」である。
これは本書のタイトルでもある『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』にも繋がる部分にもなる。
子どもを殺された親であれば、犯人を憎しみ、殺してもらいたいと感じるのは当然のことである。私にも子どもがいるので、まったくもって同感である。自分の子どもが殺されたら犯人を殺したいと思う。
それを踏まえた上で考えてみてほしい。
「天涯孤独で誰も悲しむ人がいない人の命と、家族に愛された人の命の重さは違いますか?」
「人気アーティストと、無名の一般人では、命の価値に差はありますか?」
どうだろうか。この問題に簡単に答えられるだろうか。
少なくとも私は今まで自分が信じていた“正義”が揺らぐのを実感した。あまりにも狭い視野でものごとを判断していたと気付いてしまった。
自分の感情は確実に「犯人を殺せ」と言っている。だけど論理は崩れている。
そこに答えはまったくない。ただの疑問だけが残ってしまった。
「じゃあ遺族の感情はどうしたらいいのか?」
最後の「犯罪の抑止力」については簡単である。
実際に死刑に抑止力は存在しないと証明されているのだ。
事実ヨーロッパのほとんどの国では死刑は廃止されている。死刑は廃止される前と後で犯罪の発生率が上がったという事実が存在しないのだ。
ただこの「抑止力」については、自らを考えてみれば答えが見えてくると思う。
いくら厳罰化をしたり、死刑制度を設けたりしたとしても、実際に犯罪を犯す時というのは、「これくらいならバレないだろう」と考えているものだ。受ける罰の重さなど考慮しないだろう。
また、殺人に代表されるような大きな犯罪は、感情が高ぶり衝動的なものだと想像できる。少なくとも「人を殺そう」なんてのはまとまな思考で生まれるものではない。
そこにもし「こんなこと(殺人)なんてしたら死刑になってしまう」と考える余裕がある人は、そもそも殺人なんてやらない。
浮かんだ疑問
以上の話は本書の中でもほんの一部である。400ページ近い内容の中に、たくさんの教唆が含まれている。真剣に向き合えば、今までの価値観を揺さぶってくれること請け合いである。
本書を読みながら不思議に思ったことがある。
作者の森達也氏は、とても柔軟な考え方をされている方だ。だがそんな森氏に対してネットではひどい中傷の言葉が飛び交っているらしい。
なぜそこまで非難されてしまうのだろうか?なぜそこまでの拒絶反応が起きてしまうのだろうか?
素直に疑問に感じた。
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分からない状態はストレス
以前何かの本で読んだのだが、人は自分がネットで見つけた情報に対して「これは誰もが知らない特別な情報なんだ」と思い込む習性があるそうだ。
これだけ情報に溢れた世の中で、目にするすべての情報を等しく興味を持ってながめることは不可能に近い。とりあえずたまたま目の前にあった情報を「これこそは!」と決めつけたくなる気持ちはよく分かる。
特に「犯罪者は特別な人間」「アタマのおかしな人」「隔離されるべきだ」というような、刺激的で分かりやすい思考はインストールされやすい。容量が軽い。
それに対して森氏が語るような言葉や疑問は、せっかく見つけた分かりやすい“答え”を難しくしてしまうものだ。つまり分からなくなってしまうのだ。
だから非難される。攻撃される。
「いちいち分かりづらくするな」「意見を合わせろ」「反対意見を言うな」
人は分からない状態を放っておけない習性がある。だからこそ、学習する力を備えており、問題を解決する能力を持っている。
だが学習にしても問題を解決することにしても、どちらも非常に骨が折れる。疲れる。
できるだけ分かりやすくし、答えをたくさん持っておくことで、学習する必要も、問題を解決する必要もなくしているのかもしれない。
バカは答えを持ちたがる
今の私が完全にそうなのだが、ネットや本で色んな知識を吸収し、誰も知らないことを知ることで、「答え」を手に入れたような気になる。
答えを持っていると安心する。だって考える必要がなくなるから。
だからバカほど答えを見つけようとするし、見つけた気になるのだろう。「これこそが答えだ」と。
でも本当に賢い人は違う。安易に答えを出すことはしない。というかできない。
色々なことを色々な角度から眺めることで、答えを出すことの難しさを知っているからなのだろう。
よりよいを求めて
はっきり言って私はバカだ。頭を使ってるフリをしていつも何も考えていない。色んな角度から見ることができない。
だからせめて、自分とは違う意見やモノの見方をする人を否定しないだけの度量は持ちたいと思うのだ。
世界に答えはない。そこにあるのはいつだって「よりよい」である。だから常に不都合はあるだろうし、不満はどこかしらから出る。そのたびに軌道修正を繰り返す。
だけどそうやってジリジリ成長していくのが世界であり、社会なのだ。人と全く同じである。
バカなりに成長したいと思う。そして成長する社会の一員になりたいと切に願うばかりである。
以上。
「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい―――正義という共同幻想がもたらす本当の危機 | ||||
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