どうも、小説中毒のひろたつです。無人島に持っていくなら、家族よりも小説の方がいいです。養う自信ないし。
今回紹介するのは、私が読書の呪いにかかるきっかけになった作家である森絵都の作品である。
すんげえから、覚悟してくれ。
「私は、“永遠”という響きにめっぽう弱い子供だった。」誕生日会をめぐる小さな事件。黒魔女のように恐ろしい担任との闘い。ぐれかかった中学時代。バイト料で買った苺のケーキ。こてんぱんにくだけちった高校での初恋…。どこにでもいる普通の少女、紀子。小学三年から高校三年までの九年間を、七十年代、八十年代のエッセンスをちりばめて描いたベストセラー。
私が唯一信用している「本屋大賞」の記念すべき第一回において、堂々の4位にランクインした文句なしの名作である。ちなみにそのときの1位は『博士の愛した数式』。まあ相手が悪かっただけで、『永遠の出口』も素晴らしい作品である。ぜひとも皆さんに知ってもらいたい。そしてこの作品の破壊力に思う存分、ヤラれて欲しい。
人間の“青さ”を切り出す名人
まずは魔術師森絵都について語りたいと思う。ここから始めないと、『永遠の出口』の恐ろしさを伝えられないからだ。
森絵都は『リズム』で講談社児童文学新人賞を受賞しデビューした、児童文学作家である。3作目となった『宇宙のみなしご』では野間文芸新人賞を受賞し、後々課題図書にも選ばれたりしている。私はここで森絵都と衝撃的な出会いを経験した。
ちなみにだが、面白い小説を探している方は過去の課題図書を調べると宝の山なのでオススメである。
で、そんな児童文学作家の森絵都であるが、最大の武器がある。
それは「人間の青さ」を切り取る能力である。これが抜群に優れている。
誰しもが抱えていた幼き頃の葛藤や愚かさ、そして大人になった今でも実はそのまま抱え続けているそれらを、森絵都は巧みな文章で描き出す。
彼女の作品は読んでいてハッとするような描写ばかりなのだ。
児童文学ナメんな
児童文学と言うと、「幼稚」とか「単純」なんていうイメージを持たれる方も多いだろう。実際、私もそうだった。
しかし、児童文学で語られる内容というのは、大人が読む小説と同じである。むしろSEX&ドラッグが無い分、児童文学の方が内容の純度が高く、我々に突きつけてくる問題の重さも感じやすい。想像以上に、児童文学は割り切れない難しい問題を多く取り扱っている。逆に言えば大人の小説は目くらましが多すぎると思う。
※こちらの『ワンダー』なんかはその最たる例。大人が読んだら価値観変わるぜ。
児童文学はすげえ。それが分かってもらえただろうか。そしてそんなすげえ世界でブイブイ言わせていたのが森絵都なのだ。
彼女の瑞々しい筆は思春期を迎えている子供たちの心を確実に掴み取った。
彼女の作品には、本物の“未熟な感情”が存在した。それがあまりにも自然だったからこそ子供は、共感し、受け入れたのだ。私が実際そうだった。まるで心の中を覗かれているような気分になった。
子供は異物に対して過敏である。作り物の“未熟な感情”であれば、すぐにニセモノだと見分けられたことだろう。なにせ、当事者である今の自分の年代の子供を描いているのだから。
ふたつの役割をこなす
森絵都は作品内で、ふたつの役割をこなしている。
ひとつは子供たちの「共感者」になってあげること。
これによって子供たちは味方を得たような気分になる。森絵都作品の主人公たちも、子供たちと同じように色んなことで、悩み、苦しみ、足掻き続けている。
そんな様子を見て「自分だけじゃないんだ」と思える。
そしてもうひとつの役割は「鏡を突きつける」ことである。
森絵都はその巧みな筆によって、人間の未熟さや愚かさ、不完全さ、矛盾などを鮮やかに切り取る。そしてそれを私たちの目の前に突きつけてくる。
「これがあなたですよ」と。
そんな森絵都が大人に筆を向けたならば
さあ、そろそろ『永遠の出口』に話を進めていこうか。
読者の味方でありながら、読者自身の姿を見せつける存在である作家森絵都。
そんな彼女が大人である我々に筆を向けたらどうなるか。
『永遠の出口』は森絵都が初めて大人読者向けに書いた小説である。別にだからと言って、SEX&ドラッグが盛り込まれているわけではない。森絵都による「大人のための青春小説」、それが『永遠の出口』なのだ。
児童文学世界から飛び出した森絵都の第一作目。どんな仕上がりになっているか。
はっきり言おう。
『永遠の出口』は恐ろしい作品である。
柔らかい部分をえぐり出してくる
大人になってつくづく思うが、精神年齢なんてもんは高校生の頃からほとんど変わっていない。なのに容姿や体力はどんどん劣化していくからビックリする。
まあそれはいいとしても、とにかく我々は大人に見えたとしても、実際は子供の頃、学生時代と変わっていない部分が多くある。というかほとんど変わっていない。
たぶん変わっているのは、心の外側と呼べるような部分だけだ。経験値だったり、知識だったりで装える部分は変わった“ように”見えるかもしれない。
でも心の真ん中の真ん中部分はあの頃のまま。それこそが自分自身だと言える。
そんな心の中にいる“未熟な自分”を、森絵都は『永遠の出口』という作品を使ってえぐり出してくるのだ。
心の一番ナイーブで、一番柔らかい部分なのにも関わらず、お構いなしだ。その極道非道ぶりは女王様そのものである。もしかしたら森絵都は強烈なSなのかもしれない。
苦しめるのに暴力はいらない
あまりにも湾曲な表現になっているような気がするので、直截に書こう。
『永遠の出口』を読んで我々大人はどうなるか。
黒歴史を思い出してしまうのだ。
誰にもある「若きゆえの過ち」をありありと思い出してしまい、恥ずかしさにのたうち回りたくなる。まさに悶絶である。
大人を苦しめるために森絵都は暴力を必要としない。もちろん暴力的な言葉も必要としない。むしろ『永遠の出口』で使われる言葉は非常に美しく、洗練されたものだ。この辺りは、さすが児童文学出身、といった感じである。
森絵都はただただ「バカだった頃の自分」を私たちに突きつけてくる。えぐり出して見せつけてくる。
これでヤラれない人はいないだろう。
立ち上がれますか?
『永遠の出口』で主人公が中学時代に差し掛かった場面でこんな文章がある。
私自身の過去を顧みたとき、思い出すのはナイフのようでもガラス細工のようでもなく、もっとつまらないがらくたみたいな自分だ。あの激烈な三年間、いわゆる思春期の直中をつぶさにたどればたどるほど、本当のところ私は前髪とファッションと男の子のことしか考えていなかったのではないか、とさえ思えてくる。
主人公と性別が違うとはいえ、私はこの「前髪とファッションと異性のことだけ」の部分が分かりすぎてツラい。
ちっぽけな自尊心と足りない自信と持て余した性欲。中学時代なんてそんなもんだ。
思い出は思い出すから綺麗にパッケージングされているだけであり、実際はそんな綺麗なもんじゃない。もっと生臭えもんだ。勝手に美化してんじゃねえ、という話である。
こんな描写がそこら中に散らばっているのが『永遠の出口』という作品なのだ。そりゃ悶絶もするよ。みんな確実にヤラれる。『永遠の出口』の前では何人たりとも立ち上がれないのだ。それくらい圧倒的な筆力を感じる作品である。
それにしてもこんなに彼女の筆で苦しめられるぐらいなら、まだ直接筆でくすぐられた方がマシというものである。
この破壊力をぜひ味わっていただきたい。そして黒歴史と久々に挨拶してみてはいかがだろうか。
以上。