どうも。
いつの時代も異端児と呼ばれるアーティストがいる。その時は異端児だとしても、彼らから発せられる魅力にやられいつの間にやら、それがスタンダードになっていたりするものだ。それはRCサクセションがそうだったように、椎名林檎がそうであったように。
新しいものというのは批判をしやすい。そして大抵のバカが批判をする。その価値が見極められないからである。
この記事の主役である『水曜日のカンパネラ』はまさに今現在、異端児街道をフルスロットルで驀進中だ。こんなにも異端児、異色、唯一無二を地で行くアーティストもなかなか珍しいと思う。
何かと賛美も批判も多い『水カン』だが、その魅力はどこにあるのか?そしてなぜこんなにも嫌われるのかを考えてみたいと思う。
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看板商品
水カンの看板商品と言えば間違いなくこの『桃太郎』だ。
この不愉快な絵面でなんと再生回数900万超えである。直に1000万に届くことだろう。
水曜日のカンパネラはヒップホップユニットらしいので、これもきっとヒップホップなのであろう。よく分からんが、聞いていて音程を感じる部分は少ないし、ほとんど喋っているような感じなのでまあヒップホップなのか。
最近はフリースタイルダンジョンの影響か、韻を踏む=ラップと思われがちだが、基本的には歌わずにリズムに乗せることがラップなので、水カンがやっているのもラップである。韻っぽいのも踏んでいるが、それが主体ではない。
美人である
賛否があるとさきほど書いたが、これだけの再生回数を見るに支持している人がかなりいるものと思われる。あくまでも否は少数派であろう。
大体にして演者のコムアイがこの容姿である。
うん、好きだ。しかもこれでくびれとか見せてくるんだろう?そら人気も出るわ。
アーティストの容姿が全てだと言う気はないが、それでもやはり美男美女というのは何をやっても支持されるものだと思う。ここのポイントは、「支持される」であって「許される」ではないことだ。これだけ異端な作品をぶっこんでくる彼らなので、一定数「意味分かんねえよ」「コムアイ嫌い」なんていう輩はいる。だがそんな否定派がいるかどうかよりも、「好きだ」と支持してくれるファンがいるかどうかの方がアーティストとしては重要であり、生命線なのだ。美人は得である。
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正直、分からない
『桃太郎』にしても、音楽番組でよく披露している『チュパカブラ』にしても、私の素直な意見としては「よく分からん」である。こんな記事をしたためておいて何だが、やっぱり付いて行けていない感がすげえある。
ただヒップホップユニットというだけあって、トラックはいいと思う。シンプルだが色々と音に凝っている感じがして、聴いていて心地よいのは間違いない。ただ「そんなにいらない」というのが正直な所である。そこまでの中毒性は私には発揮しなかったようだ。
否定しづらい空気
今でこそ色んなメディアに取り扱われ知名度も上がり、賛否がよく聞こえるようになった水カンだが、まだネットで注目され始めたばかりの頃は「すげえ」とか「天才」、「中毒性がすごい」というような好意見ばかりだったような気がする。何となく、「これは最先端なのだから受け入れない奴はダメ」的な圧力を感じたものだ。もしかしたら今でもそうだろうか?水カンを「分からない」と言ってしまうと、「センスねえな」と言われてしまうだろうか?
人は難解な芸術作品に出会ったときにあまり「分かりません」とは言えないものだ。少しぐらいは理解を示したりしたくなる。たとえさっぱりだったとしても。
そうなると自分の気持ちのギアを入れ替える。「これはいいものだ」という目線にする。これを自己暗示という。
そもそも私が理解していないので想像の域を出ないが、今のこの水カン人気はこういった自己暗示によるものが大きいのではないだろうか?本当にみんな魅了されているのか?ムリしてないか?
実は同じような現象をダウンタウンの松ちゃんのときにも見た。
システムキッチン part 1 ダウンタウン コント VISUALBUM
コムアイが悪い
何よりもコムアイが美人であることがいけないのだと思う。
「こんな美人が堂々とやっているパフォーマンスなのだから、悪いものであるはずがない」という補正が入る。邪念とも言うかも知れないが。
また逆に「美人のクセにハイセンスなことしやがって。ムカつく」という補正もあるかもしれない。これも邪念みたいなもんだろう。
いつだって私達の心の中にある補正は正しい方向には作用しない。基本的には観察している本人が望む方向に作用するのだ。
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嫌われる理由
時には憎しみを感じるほどに嫌われる水カン。美人であることの他にも水カンが嫌われる理由が考えられる。
それは人々の劣等感である。自己承認力の欠如とも言える。
自己承認力が足りない人というのは、「理解不能なもの」に出会うと「自分はバカなのかもしれない」と思ってしまう。分からないならば「別に興味ないや」で済ませればいいだけの話なのだが、彼らはそうは行かない。
「理解しなければいけないのに、自分には分からない」という圧力に耐えかね、そして「自分はバカ」であることを否定するために、「こんな訳の分からないことをやっているこいつがバカなのだ。何ならイカれているのだ」と思うようになる。
自分が劣っていると認めることは生き物としての危機である。生き物は危機に瀕すると、「逃げる」か「攻撃する」かのどちらかしかしないのである。水カンを否定している人達というのは、自分を守るために必死で戦っているのかもしれない。
そういう人たちは得てして盲目的なので、私の言葉なんぞ届かないかもしれないが一応書いておこう。
水カンがどうのこうのよりも、あなた自身が振り回されていることを恥じた方がいい。私のように「水カンの音楽はよく分からないけど、コムアイのくびれは素晴らしい」ぐらいでいいのだ。
音楽はアートだ。アートなんて理解しようがしまいが、あなたの命には何の影響もないのだから。
以上。