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今日も誰かが誰かを殺してる。森達也『死刑』

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人の命を奪ったんだから殺されるべき、と簡単に考えられたら…。

 

深淵を覗いた先にあるもの

どうも、読書ブロガーのひろたつです。たまには濃厚なやつでも読もうかと手に取ったのが、今回ご紹介する本である。

タイトルは『死刑』。

あまりにもシンプルなタイトルだが、中身は混迷を極めた内容。作者の森達也氏の苦悩をそのまま落とし込んでいる。だからこそ読む価値があったと、読後の今は思う。

そもそも森達也氏自身も「わざわざこんなテーマを選ぶ必要なんてないのに」と語っている。 それくらい難しく重いテーマだ。

しかし日本国に暮らしている以上、私たちの生活は死刑と地続きになっており(意識したことなんてなかったけど)、毎年何人かの死刑が行なわれ、それに加担している。

誰もが死刑の存在は知っているけど、その実態や、理由、成り立ちについては、驚くほど知らない。見えない所でひっそりと行なわれている。

死刑というテーマを取り上げればそこには暗い深淵が覗いている。それでもあえて覗いてみる。その先になにがあるのかを確かめてみる。深淵に触れることで自分がどんなことを感じ、どんなことを考えるか。それを理由に森達也氏はこの本を書くことにしたそうだ。

まるで人体実験のような本である。

それゆえに非常に血の通った作品だとも思う

 

 

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内容が濃すぎる

あまりにも内容が濃いし、死刑を中心に色んなことへと視野が広がっている(例えば刑務官とか教誨師、弁護人、被害者遺族など)ので、感想をまともに書こうと思ったら、とんでもない内容になりそうである。

なので、この記事ではこの本を読んで私が感じたこと、考えたことを簡潔にまとめていきたい。

 

ちなみに皆さんお分かりの通り、本書『死刑』の中に答えはない。それぞれの意見があるだけである。一応、作者の森達也氏の答えも書かれてはいるが、これも森達也氏自身が「強要しようとは思わない」と語っている。

森達也氏が3年間という時間をかけて、死刑というものと正面からぶつかりあった記録だと思ってもらっていい。

この記録を読んで、自分自身がどんな結論を出すか、またはどんな問いを持つかを知る。

そこに本書の価値がある。

 

単純なものじゃない

私は森達也氏の著書を読むまでは、ゴリゴリの死刑存置派(賛成派という意味)だった。

「人を殺したやつを殺すのは当然でしょ」

というひどく簡単な論理だった。論理になっているかどうか知らんが。

それに、犯罪者というものを自分とはまったく違う存在だと認識していた。別人種、というか別の生き物。逸脱した存在。そんな正体不明の化物をこの世から抹消する方法があり、しかもそれが合法なのであれば、ぜひともやってほしい。そんな考えだった。

しかし、それはあまりにも死刑制度の表面を撫でただけに過ぎなかったことを知る。

 

人を殺すことは簡単ではない

「目には目を」的な発想で犯罪者を罰しようと思う日本人は多い。だからこそ死刑という制度が継続されているとも言える。

でも、だったら誰がそれをするのか?という課題がある。今は刑務官が行なってくれている。法律の名の元においてだが、それは確実に“殺人”だ。このストレスは多大なものだという。詳しく知りたい方は、『休暇』という映画をご覧になってみるといいだろう。死刑の執行を行なう代わりに、特別休暇を貰った刑務官の話だ。

 

 

こんな話を持ち出すと、「だったら被害者遺族にやらせればいい」とか「俺がやってやるよ」なんていう意見がよく出る。でも人は実際に人間を目の前にすると殺せないものらしい。そんなエピソードが本書に載っていた。引用させてもらう。

 

「死刑は反対だけど、もし自分の家族が殺されたら国の代わりに自分で殺すって言う人ってよくいますよね。でもね、絶対に無理だと思う。被害者が加害者を殺した例を僕は知りません。

(中略)

被害者遺族で、こっそりナイフを法廷に持っていった人を僕は何人か知っています。柵を隔てた向こう側に加害者の背中があったらさ……。

一応ガードしてる職員がいるけど、物理的にはあんなの全然関係なく実行できるはずです。ポケットにナイフを持ちながら、被告の背中を見つめていた遺族は何人もいます。でも殺せない。結局は、ナイフに触ることもできなかったって、みんな言います。人間的にもシステム的にも個人で復讐なんて絶対にできない。人を殺すって、復讐するって、それほど恐ろしいことなんです」

 

 

これは『死刑』を執筆するにあたって取材した対象のひとり、ジャーナリストの藤井誠二氏の言葉だ。被害者遺族に関する書著を多く執筆しているだけあり、その言葉の重みは半端ではない。

 

人を殺してはいけない。でも法律は人を殺す。 

そもそも法律は「人を殺してはならない」と決めているはずなのに、その法律自身が「人を殺す」というは矛盾を孕んでいる。

これも本作の中で語られる言葉だ。

鬼畜を殺すのは当たり前、というふうにしか考えていなかった私としては、思わぬ所から殴られたような気分になった。「確かに…」と考え込んでしまった。

もちろん「人の命を奪った人間は例外」と言うこともできるだろう。つまりやった行為によって、命の重さは変わるという考え方だ。完全には納得できないが理解できなくもない。

 

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まずは深みを知ることから

死刑に対して賛成でも反対でもいい。当たり前だけど、それは本人の自由だ。

でも世間でよく聞くような「悪いことをしたんだから裁かれるべき」とか「クズは死んだ方がいい」という軽い意見しか持ち合わせていないのは、強く疑問に感じる。

人が人を殺すというシステムである“死刑”。それはそんなに単純なものじゃないのだ。

賛成派の意見も反対派の意見もよく吟味すべきだ。その上でどう思うかを判断してもらいたい。まずは死刑というものの深みに触れてほしい。そう切に願う。

 

答えの出ない気持ち悪さ

理想を言えば「死刑はありかなしか?」という設問に対して、明確な答えが欲しいところだ。何が正しいのかを知りたいと思う。

だが、今のところ私はまだ明確な答えを得ていない。

これは非常に気持ち悪い。問題を宙ぶらりんにしたとき特有の座りの悪さがある。

だけどそれも仕方のないことなのだ。

死を扱った時点で、そこに答えを見出すのは極めて困難だからだ。それぞれの「~だと信じている」しか答えに成りえない。

 

森達也氏が冒頭で書いたように、わざわざこんなテーマに触れる必要なんてないのかもしれない。

だけど知っておいてほしい。

今日も誰かが誰かを殺している。その中に、法律という理由によって人を殺している人がいることは紛れもない事実なのだ。

 

以上。 

 

全然関係ないけど、写真の頃の装丁の方が相応しく感じるなぁ。