不謹慎じゃなくちゃエンタメにならない、ということを体現した作品。
どうも。読書ブロガーのひろたつです。ブログを書いてると逆に本を読む時間が無くなるというジレンマに酔いしれています。誰か俺のスペアくれ。
さて、今回紹介するのは私が「この人は性格悪い!」と(勝手に決めつけている)作家による極上のエンタメ作品である。
内容紹介
「愛美は死にました。しかし事故ではありません。このクラスの生徒に殺されたのです」
我が子を校内で亡くした中学校の女性教師によるホームルームでの告白から、この物語は始まる。語り手が「級友」「犯人」「犯人の家族」と次々と変わり、次第に事件の全体像が浮き彫りにされていく。
つかみが凄い
売れに売れまくって、私がもっとも信頼する文芸賞である本屋大賞で1位まで獲得。文句なしにベストセラーである。
なぜこんなにも売れ、そして評価されたか。
簡単な話である。
『告白』は最強の“つかみ”を持っているからだ。
中学校の女性教師が突然ホームルームで告白を始める。しかもその内容は「自分の娘はこのクラス中の誰かに殺された」という衝撃的なもの。
中学生、殺人、犯人、真相…。などなどこの“つかみ”を読んだだけで、読者は色んな期待をこの作品に持つことだろう。そしてその期待の全てには、“不謹慎”という蠱惑的な香りが漂っている。
これが決定的な要素である。人はエンタメに引き寄せられるようにできている。そしてエンタメと切っても切り離せないのが“不謹慎”なのだ。
人は興味のあるにしか近寄らない。そして興味さえ引いてしまえば、作品としてはもうすでに成功していると言えるだろう。『告白』はそういった意味で、売れるのは当然だったわけだ。売れればそれだけ分母が大きくなり、評価の声も増える。結局は売れたもん勝ちである。
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エンタメに必要なものを分かっている
この物語はいくつかの章に分かれており、それぞれが別の視点で描かれている。
それらの視点はひどく限定的で、「なぜ女子生徒は殺されたのか」「誰が殺したのか」という物語の核の周りをフラフラと回り続けている。
人によってはイライラする展開かもしれない。でも欲しいもの(凄惨な真実)はすぐそこにある予感がする。匂いがする。だから読む手を止められない。
『告白』という作品のエンタメ性はここに表れている。
人の興味を引きつつも、翻弄する。翻弄される側は作者の言いなりになるしかない。真実を知りたければ、背徳感を満たしてくれる結末を見たければ、物語に付き合うしかないのだ。
そして、エンタメというのは客の感情をどれだけ揺さぶるかが重要なのだ。
『告白』の全編に渡って流れる雰囲気は、「悲しみ」「疑惑」「不穏」といったダークなものばかりだ。
つまり抑圧である。
読者はその抑圧から開放されることを今か今かと待ち望んでいる。まるで、ジェットコースターが頂上へと向かっているときのように。
そして物語は急降下の展開を見せ、読者に最高の(もしくは最悪の…)結末をもたらしてくれる。
これこそ極上のエンタメである。
性格が悪いってどういうこと?
さて、そんな読者を楽しませることに特化した『告白』だが、これだけ面白い物語を生み出せるのだから、さぞ作者はサービス精神のある方だと思われるかもしれない。ただ、未読の方であれば、の話である。
『告白』を一度でも読んだ方であれば、作者の湊かなえの性格の悪さは誰もが認めるところだろう。別に人格を批判しているのではなく、良い意味で「性格が悪い」と言っているのだ。
「性格が悪い」とは一体何かお分かりだろうか。
つまるところ、
「他人が苦しんでいる様子を楽しめるかどうか」
これに尽きるだろう。
性格の悪さのオンパレード
『告白』はあらゆる人の苦悩が描かれていて、ラストに待ち受ける“あれ”に関しては、もう声が出てしまうぐらいの苦しみっぷりである。
そんな登場人物たちを苦しませるだけでも十分「性格が悪い」なのだが、湊かなえはそれだけでは飽き足らず、読者にまで触手を伸ばしてきやがった。
先程も書いた通り、焦らしまくりの物語構成に、そもそも物語自体が読者を苦しませるようにできている。『告白』を読んでいる最中、少なくとも10回は眉間にしわを寄せることになるだろう。
そして、湊かなえはそんな様子を思い浮かべながら、喜々としてこの物語を紡いでいたんじゃないだろうか。完全に私の妄想だけど。
それにしても、こんなに不謹慎で、不快にさせる作品なのにも関わらず、売れまくってしかも評価までされているというのは、どれだけみんなマゾなんだよと思ってしまう。
まあでも、変態の需要のために変態的な作品が供給される社会というのは、健全だとも思うし、健全と変態の融和が見られる日本という国は、本当に平和だと思ったりもする。適当に書いているだけなので、あまり気にしないでもらいたい。
元々は純文学を志望…?
悪口みたいな文章を書き散らかした所でそろそろこの記事を終わりにしようとしていたのだが、ここへきて衝撃の事実を知ったので紹介しておこう。
実は彼女は元々、文学少女で作家になろうと思ったときも純文学作家を目指し、実際そういった作品ばかりを書いていたそうなのだ。
マジか…。
湊かなえは生粋のエンターテイナーだと思っていたけど、違ったのか。持ち前の性格の悪さを最大限に活かして、サイコな、おっとタイプをミスった。最高なエンタメ作品を生み出すことに無上の喜びを感じているのだと勝手に決めつけていた。
本当に申し訳ない。こんな失礼な記事を書いてしまって。
以前私もこんな記事を書いたが、
人の「得意」と「好き」はときに一致しないことが多い。できてしまうことでたまたま職を得てしまい、そのままずるずると好きでもないことをする人は多いだろう。
もしかしたら湊かなえは、己の心を殺しながらこんなに性格の悪い作品を作り上げたのかもしれない。
極上のエンタメを!
登場人物も苦しんでいるし、読者も苦しめられるし、ここへ来て作者までもが苦しんでいた可能性がある『告白』。
どんなネガティブな要素があろうとも、この作品が極上のエンタメに仕上がってしまっているのは揺るぎない事実である。
であれば、私たちはそれをありがたくいただくだけである。
色んな苦しみの上に成り立ったものを味わう贅沢もあることを知っておこうじゃないか。 フォアグラだってガチョウとかアヒルが苦しんでるし。
ああ、そういえば基本的なことを書くのを忘れていた。
文章も非常に平坦で読みやすく、読書初心者にもオススメできる作品である。
…いや、オススメできないか。
こんな鬱展開の作品、いくら「本屋大賞受賞作品」だからって、万人にオススメできるはずがない…。
という私の告白であった。
以上。