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ミステリーの神様はいつだってきまぐれ。梓崎優『叫びと祈り』

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どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。

今回はミステリーの神様の意地悪っぷりを再確認した作品を紹介する。

 

内容紹介

 

 

砂漠を行くキャラバンを襲った連続殺人、スペインの風車の丘で繰り広げられる推理合戦…ひとりの青年が世界各国で遭遇する、数々の異様な謎。選考委員を驚嘆させた第5回ミステリーズ!新人賞受賞作を巻頭に据え、美しいラストまで突き進む驚異の連作推理。各種年末ミステリ・ランキングの上位を席捲、本屋大賞にノミネートされるなど破格の評価を受けた大型新人のデビュー作。 

 

巻頭に収録された『砂漠を走る船』で圧倒的評価をものにし、鳴り物入りでデビューした梓崎優の初著書。短編集である。

個人的にミステリーの短編は、一冊で何度も驚きが楽しめるので、大好物である。

…なのだが、こちらの『叫びと祈り』に関して言えば…色々と言いたいことが尽きない。

まず、ちゃんと伝えておきたいのは、ハズレではない、ということ。

話題になるだけのものは備えている。いるのだが…うーん。ネタバレになるので言葉の使い方が難しくて仕方ない。

 

まあいいか。率直に書こう。

 

1話目の『砂漠を走る船』は凄いけど、他が凡作。

 

これである。

及第点をあげるとしても、2話目の『白い巨人』ぐらいで、他のはちょっと言葉が見つからないレベルで凡作である。可もなく不可もなく、だ。違う言い方をすると「つまらない」になる。

 

ミステリー作品における「面白さ」とは

ミステリーとはつまるところ、謎が起こり、解決するまでを記した物語である。

いや、ミステリーにおける「解決の快感」こそが本質なのであれば、それは物語である必要もないだろう。

どこで読んだのか覚えていないのだが(たしか綾辻行人作品のどれかの解説)、ミステリーとは究極を言うと数式でも構わないのかもしれない。暗号ものとかまさにそれである。物語というよりも謎解きであり、身も蓋もない言い方をするとクイズである。

もちろんクイズになっていればいいというものではない。

読者に「分からない」と思わせ、しかしそれと同時に「手がかりはしっかりと与える」、さらに「解決に納得させ」、「意外な結末」であるとかなり完璧なミステリー作品が完成する。なかなかないが。

そもそも「納得」というのは、読者それぞれの知能レベルだったり、思い込み具合だったり、それこそ体調とかテンションとかでも変わる。なんなら前後に読んだ本の内容とかでも変わる。だからミステリーで名作になることは、ひっじょーに難しい。

それでもほんの、それこそ5年に1冊ぐらいの割合で、「読んだ人のほとんどが驚愕できるミステリー作品」というのが現れる。私はこれを「ミステリーの神が微笑んだ」と呼んでいる。

 

ミステリーに文章力は必要なのか

ミステリーにおける面白さの要は「魅力的な謎」と「最高に気持ちいい解決」なのだから、文章力やストーリーライティング能力は必要ないのだろうか。

答えは…Yesである。

そう、いらないのだ。巧みな文章も、心躍るドラマも、「ミステリーの面白さ」を担保するものではないのだ。私の知る限り、文章力があってドラマ性もあって、でもトリックがダメという作品で、面白かったものはない。どうやってもミステリーは謎とトリック。ここが命である。ここがあってはじめて、文章力やドラマの話ができる。でなければ、最初からミステリーを名乗る必要がない。

 

で、『叫びと祈り』の話である。

文章力が高いのは認めよう。とってもロマンチックな文章だ。綺麗だと思う。

でもなんだろう…。この綺麗さは、全然興味ない人の詩を読まされているような、飽きる感じの綺麗さだ。

文章力の話がよく出るミステリー作家といえば連城三紀彦だが、彼の場合は、もうちょっと自然さと必然さがあったように思う。あの文章力が彼の作品の空気を形作っていたと思うし、独特の幻惑さを醸し出していた。『暗色コメディ』とか頭おかしくなるかと思った。

当然、あの名手とデビューしたての作家の作品を比べるのは酷だと思う。しかしながら、読者としては比べる作品がある以上、比較してしまうのは仕方ない。棚に並べば、連城三紀彦も梓崎優も同じ作家である。同じ舞台で戦っているのだ。

もしかしたら、梓崎優のあの甘ったるい文章が好みの人もいるかもしれないし、もちろん好き好きだろう。私のミステリー作品の定義がガチガチすぎるきらいもあるだろう。判断は人それぞだ。

 

「トリックに出会ってしまう」という現象

私は長らく、本当に長らく日本のミステリー界を見てきたが、良質なトリックが生まれる瞬間というものには、まったく法則性がないことを思い知らされている。

これはもう「出会う」としか言いようがない。いや、「出会ってしまう」 だろうか。

読者を最高に魅了する極上のトリック。推理小説作家であれば、絶対に見つけたいし、自らの手で生み出したいことだろう。

しかしながら、そんなものを手にできるのは、数多いる推理小説作家の中でもほんの10数人だけだ。それ以外の作家たちは、なんとかして色んな誤魔化しや装飾を施して、一品に仕上げる。もちろんそういった技だって評価されるべきだし、実際に私はそういった作品でも多くの楽しみを享受してきた。

しかしそれでも、先にも書いたような「ミステリーの神が微笑んだ作品」のインパクトとは、絶対的な差がある。

 

常に良質なトリックを求め続ければ出会えるというものでもなく、完全に運だとしか思えない。

良質なトリックを思いつけるような状況と出会えるか、という問題があるし、出会ったとしても出会ったことに気付けるか、という問題もあるし、脳内で加工できるか(そういう見方ができるか)という問題もある。

例えば、島田荘司の『占星術殺人事件』。あれはある事件をきっかけに思いついたネタだそうだ。有名な事件なので、日本人の多くがその事件を目にしたはずだ。しかし、推理小説のトリックに応用しようと思い、作品にまで昇華した変人は島田荘司しかいなかった。

そういうことなのだ。

 

思うに、『叫びと祈り』で最高の輝きを放っている『砂漠を走る船』もまた、「出会ってしまった」類の作品である。収録されている他の作品が凡に見えてしまうのも仕方ないことなのかもしれない。正直、これまでに何度も見てきたパターンである。

 

つくづく思うのは、ミステリーの神はいつだってきまぐれであり、トリックを生み出そうともがいている人間たちを、弄ぶことで楽しんでいるフシがある。どうしようもない神である。

とはいえ、ミステリー作品というものがそもそも、人の命を軽々しくエンタメの道具として使っているわけで、そもそもどうしようもないジャンルなのである。

どうしようもないジャンルの神様がどうしようもないのは、どうしようもないほど相応しいと思うのだ。

 

以上。