俺だってヒーローになりてえよ

何が足りないかって、あれだよあれ。何が足りないか分かる能力。

自らの無知さに撲殺されたい。『カブール・ノート 戦争しか知らない子どもたち』

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どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。

頭を殴られたような衝撃。隠れた名作です。こういう本を知ってもらうために、ブログを書いているようなもん。

 

内容紹介

 

戦争の本当の悲惨さを、なぜ日本のメディアは伝えないのか!米国のエゴ、テロリスト掃討の犠牲になる市民、捕虜への虐待、一方的で横暴な捜査…。現在イラクで日々発生している悲劇は、アフガニスタンですでに起きていた―。国連難民高等弁務官として戦地・カブールで悲しみの現実に触れ続けた著者だからこそ描けた“悲しみの真実”とは。 

 

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『カブール・ノート』を読んだ主な感想

かなりの衝撃を受けた本作だが、他人のオススメなどで目にしたことはない。もしかしたら埋もれてしまった作品なのかもしれない。(実際、2019年11月現在でKindle版はないし、文庫版でもやたら高価になってる。)

 

私が『カブール・ノート 戦争しか知らない子どもたち』を読んだ主な感想をざくっとまとめておく。ぜひ選書の参考にしてもらいたい。

 

ナマの生きた言葉に満ちている

アフガニスタンで難民救援に働いた著者の、現地でのナマの生きた言葉を読むと、どれだけ自分が無知か思い知らされる。申し訳なくて、情けなくて、とりあえずたまらなく誰かに殴ってほしくなる。でも本当に殴られるのはキツイから、自分で自分を殴りたい。ていうか、もうすでに殴られた気分です。

 

ちなみにだけど、故 緒方貞子氏から直接「現地の真実がよく書けている」と評されたことがあると、著者のツイッターに書いてありました。

 

ビン・ラディンのもうひとつの側面が語られている

世紀の大悪党、諸悪の根源だと思われていたオサマ・ビンラディン。彼は実は国内では本当の意味でヒーローだったことをご存知だろうか。私はまったく知らなかった。

アフガニスタンでは、彼の勇気ある戦いのおかげでたくさん人々が救われている。これを知れただけでも、この本を読んだ価値があったと思う。

9.11のテロを認めるわけではなくて、もうひとつの側面を知れたことに価値があった。やはり、どちらが正義ということはないのだと思い知らされた

 

我々が知っているのは、本当にごく一部。それを知れる

日本のメディアで語られるアフガニスタンというのは、本当に一部でしかない。なので、普通に生活している人からしたらかなり衝撃的な内容が続く。かと言って、おどろおどろしく語るのではなく、淡々と冷静な視点から著者自身が見聞きした事実や考えを記している。

厳しい内容ばかりの本書の中で、その冷静さや、著者の難民への揺るぎない愛だけが、数少ない救いになっている。

 

似たもの同士が争う、という図式

本書の中で「タリバンとアメリカは似ている」という、イギリスのガーディアン紙の結構強烈な記事が引用されている。

実際どんなところが似ているかというと…

「第一に、自らの優越性をまったく疑わないこと、第二に自らの価値観が普遍的に妥当であると主張すること、そして第三に自分と深く異なるものを理解しようとする意思に欠けること」

だそうだ。

 

国家の戦いについて私はあまりにも無知すぎるので、分かったようなことはとてもじゃないが言えない。

なので、どうしても自分が観測できる範囲、もしくは理解していると錯覚しているレベルでの話しかできないのだが、争う両者というのはいつだって同じレベルだからこそ争いになるものだと思う。これは国家に限らず、人対人でも同じだ。人が家畜と争うことはないのと同じように。

いや、そもそもどちらが上とか下とかいう、とても下品な見方をするからいけないのかもしれない。

 

「分からない」を認めることの大事さ

次に引用するのは、社会哲学者ビークー・パレクの言葉だが、とても示唆に富んでいる。

 

「人生の壮大さ、深さは一つの文化で抱合するには大きすぎるのだ」

 

本書の中でも引用としてさらっと登場するだけの言葉なのだが、私は心底打ちのめされた。

まさにそうだ。私は知らず知らずのうちに、「世界は難解かもしれないけれど、理解できるものでできている」と決めつけていた。

 

多様性が当たり前になるこれからの時代には、きっとこの謙虚さが必要なのだろう。

分かることが正しいと思うから間違える。分からないものを排除したり、敵とみなしたりしてしまう。そして諍いが生まれる。

分からないことだらけなのが、この世界だと潔く受け入れること。理解できない自分の小ささを認めること。それが争いのない世界でのスタンダードになるのだ。

 

自分がバカであることを認めるのは、ときに痛みが伴う。それがプライドを傷つけるような場合は特にだ。人は痛みから逃げる。逃げるために誰かを傷つけたりもする。認めないことで相手を傷つけ、自分の身を守る。攻撃するのも守るのも、本質的には同じことなのだろう。

 

どうやったらテロを防げるか

引用ばかりで申し訳ないのだが、価値観をガンガンぶっ壊された箇所ばかりなので、どうしても紹介したいのだ。お付き合いいただきたい。

次の一節は、著者の山本芳幸氏の考える「テロの防ぎ方」について書かれた稿である。知性に満ちた文章だ。

 

「テロに戦争が挑んでも勝ち目はない。なぜなら、テロにはルールがなく、戦争にはルールがあるからだ。ルールがないものが勝つ。戦争が勝つとしたら、それがテロに変質する時だ。

テロがルールの外で暴力をふるう、というのはテロの実行者は社会の外部にいるということと同義である。あるいは、ある社会に所属するということはルールに拘束されるということだ。では、テロはいかにして排除されるか。一つの方向は、テロの実行者、すなわち外部を完全に抹殺するということだ。もう一つの方向は、外部を内部に取り込むということだ。前者は人類を果てしない殺し合いの世界へ導くだろう。なぜなら、人類はあまりに多様な社会から成立しているからだ。」

 

これもさきほどの「分からないを認める」に通じる考えだろう。

この世界はどうしようもないぐらいに、欲望に満ちていて、色んな思惑や正義が絡み合って、いつまでも悲劇を起こし続けている。

悲惨な難民の状況や戦争の話を見聞きするたびに、私はときに絶望的な気分になることがある。あまり偉そうに言うつもりはないけれど、毎月ユニセフと国境なき医師団に定額で募金をしているのだが、それも焼け石に水な気分になってしまう。 

世界平和なんて今の時点ではあまりにも夢物語すぎて、語れば嘲笑されるレベルだ。生身で空を飛びたいと言うのと同じレベルだろう。

 

でも、でもだ。

 

それでも私は誰かが苦しんでいるのを放っておくことも、それに対して見ないふりをするのもできない。私の寄付や行動がどれだけ微々たるもので、全体から見ればほとんどゼロに等しい貢献しかできないことも理解しているが、それでもやめることはできない。

 

偉そうなことばかり書いているが私だって、日常に戻れば、ニュースに不快になったり、職場の同僚に腹を立てたりするような小市民である。全然立派じゃない。

だが、そんな私でもまだできることがあるのも事実だし、こうやって新しい知識に触れて、考えをアップデートできるのだ。きっとこれを人は希望と呼ぶのだろう。

本当にささやかではあるけれど。 

 

苦しい事実ばかりが書かれた本書。正直楽しい本ではないだろう。でもとても大事なことが、山ほど書いてある。苦しくとも目にしておくべきだ。

 

最後に著者が、現地の宗教警察の検問に引っかかるシーンがある。

国連のメンバーとはいえ、アフガニスタンの宗教的ルール(たとえば女性だったら国籍に関係なくヒジャブの着用など)から外れれば、逮捕されることもある。しかも相手は常時肩からカラシニコフをぶら下げているような連中である。緊張感が半端ではない。

剣呑な雰囲気が漂いだすが、著者が放ったある一言をきっかけに、場の空気が一変する。

ここで語られるやりとりを読んで、私はなぜか涙が湧き出てきてしまった。正直意味が分からなかった。身体の反応に脳の活動が追いつかなかった。

人間という生き物の素晴らしさ、愚かさみたいなものが、あのやりとりにすべて詰まっているような気がするのだ。それがなんなのかは、本書を読み終えてしばらく経った今もよく分からないのだけれど。

でも、ひとつだけ確かなことが言えるとすれば、あれは間違いなく希望だった。アフガニスタンという厳しい大地で、かすかに輝いていた希望だ。

 

これだけたくさんの経験を、たった一冊の本でさせてもらったことは、とても幸運なことだと思う。この場を借りて、著者の山本芳幸氏に深く感謝したい。

 

以上。

 

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