どうも。
重松清はどんな脳みそをしているんだろうか。
内容紹介
エイジ (新潮文庫) | ||||
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ぼくの名前はエイジ。東京郊外・桜ヶ丘ニュータウンにある中学の二年生。その夏、町には連続通り魔事件が発生して、犯行は次第にエスカレートし、ついに捕まった犯人は、同級生だった――。その日から、何かがわからなくなった。ぼくもいつか「キレて」しまうんだろうか?……家族や友だち、好きになった女子への思いに揺れながら成長する少年のリアルな日常。山本周五郎賞受賞作。
こういった家族小説は読む時期によって見せる顔を変える。私は二児の父となってからこの作品に出会った。主人公は中学二年生。とてもじゃないが感情移入するような対象ではない。どちらかと言えば、彼の両親たちや教師側である。
しかしそれでも重松清の鋭い筆致によって、私は読み始めてすぐに中学二年の少年になってしまった。
当時の葛藤も、苦しみも、喜びも、恥ずかしさも、ちっぽけなプライドも、カッコ悪さも、すべてがここにあったように感じられた。
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重松清の恐ろしさ
子供を主人公に据えた作品というのはなかなか難しい。それが児童文学であれば自然と行える部分があるのだが、大人が読む小説作品において少年の心理描写というものをどのレベルで表現するのか?という問題が立ちはだかる。
あまりにも幼稚化した心理描写だと大人が読むに耐えない。
しかしあまりにも凝った描写にするには、いかんせん作者自身が歳を取り過ぎてしまっていて、少年時代の青さを失っていたりする。無理に繊細な描写をしようものなら、「なんか気持ち悪い…」と読者に感じさせてしまう。
しかしここはさすがの重松清である。
とても大人が書いた作品だとは思えない。あまりにも青く、未熟で、曖昧模糊とした少年の心理状態を「的確」に書いている。曖昧なのに的確。この恐ろしさが分かるだろうか?読まないと伝わらないかもしれない。
大人が書いているというよりも、文章がクソほど上手い現役の中学生が書いたと言われた方が信じられると思う。
いやー、これはすげえわ。
小説の作法
この『エイジ』を読む際に気をつけてもらいたいことがある。
これはエンタメではない。心を体験する作品である。
重松清作品を読んだことがある方はご存知だと思うが、この作者、いろんな心の問題を取り扱い、登場人物たちにそれはもう素晴らしいほどに苦悩させる。葛藤させる。
なのに解決策や答えを見せることがない。
息子がキレて、親とぶつかり、その中でも親子の愛情を確かめ合い、最後には泣きながら抱き合ってハッピーエンドなんてのは起こらない。
人によっては「解決がない」ことを気持ちが悪いと言ったりする。無責任だと言うこともある。
その気持ちもわかる。ただ言えるのは、「入る店を間違えたな」である。ラーメンを食べたくて中華料理屋に入ったら、ラーメンを取り扱ってない店だった。そんな感じだろうか。
思った通りのものが出てこなかった時の期待はずれ感はよく分かる。しかし期待通りを求めている時点で、小説の楽しみ方を分かっていないと私は思う。
小説はできるだけ頭を空っぽにして楽しむべきである。本来ならあらすじさえも余計だ。
私たちはただただページの上に載せられたインクをひたすらに追えばいいのである。そこには何の期待も思惑もいらない。作者が用意した物語を味わえばいいのだ。
それが作品のすべてである。作品をつまらなくするのは大抵が読者の甘えや見当違いによるものなのだ。
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本当に苦しいこと
作品の内容については触れない。
ただ少し、この作品を読んで感じたことというか自分の中で腑に落ちたことを記したい。
私たちが少年だった頃、色んなものが変わっていく中で、自分の成長も感じていた。だからこそ焦ったり、大人びてみたり、澄ましてみたりした。
でもいくら大人ぶってみた所で本当の大人にはなれるわけもなく(それは今でも同じだが)、色々とムリを抱えながら過ごしていた。
そのときのムリについて分かったことがある。
なぜあんなにも私たちは苦しかったのだろうか?大人になれていないからか?心と体が~なんて言い尽くされたものでは説明がつかないぐらい悶えていたように思う。
これは、分けられないからなのだ。
子供だった頃は全てが「分かる」か「分からない」だった。ふたつに分けられる。
大人になると今度は「分かる」「分からない」「綺麗」「汚い」「仕方ない」など分類の種類が増えるものの、世の中の大抵のことは仕分けられてしまう。
それが子どもと大人の間にいると、大抵のこと(そう人生のほとんどのこと)が「分けられないもの」になってしまうのだ。見える部分もあるけど全体像は見えない。分かる所はあるけど納得はできない。
そんな「分けられないこと」だらけになる。
よく大人は「清濁併せ呑む」なんて言うが、実はこれは簡単なことなのだ。だって「これは汚いものなんだな」と分かっているから、それなりの覚悟を持って受け入れられる。
本当に苦しいのは「分けられないもの」を仕方なく、しかも自分の意志とは別の理由で飲み込まざるを得ないことなのだ。それは時間の流れであり、周囲の変化であり、周りの目線だったりする。
大人は子供の悩みを小さく捉えがちである。小さな世界で苦しんでいる、と。大きな視野を持てばすぐそこに答えがあると思い込んでいる。
しかし実際はそんなことは全然なくて、本人に答えを受け入れるだけの心がなければ、どこに目を向けようとも目の前には壁があるのだ。
照れるし、悶えるし
この『エイジ』を読んでいる間中、私はいろんな感情に襲われ続けていた。これはなかなか言葉には言い表せないのだが、色々と混じりすぎて最終的になる状態はやはり「照れる」と「悶える」だろう。どちらもキャパシティを越えた感情に襲われた人間に訪れる状態である。
上でも書いたように、この作品の中で「キレる」少年への解答は得られない。ただその問題に翻弄される心模様が展開されるだけである。
しかしそこにこそ価値があると私は思う。
「キレる」と「理性」の間で揺れるエイジを体験することで、今まで傍観者でしかなかった私たちは一気に当事者に近いレベルまで接近することができるのだ。こんなに貴重なことがあるだろうか?
傍観なんてのはいつだってできる。しかし当事者意識というのは、やはりその場にいなければ得られないものだ。
わざわざ小説を読んで苦しむ必要なんてないのかもしれない。
しかしこの「苦しみ」や「当事者意識」を日々の生活の中で感じようと思っても、ムリな話である。作品の中にしかないものがあるのだ。
それに価値を見出すかどうかはあなた次第である。
ちなみに私はこの作品に出会えたことを感謝している。
以上。
エイジ (新潮文庫) | ||||
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