検索すれば何でも出てくる現代。だからこそこれからは、検索しても出てこないことを見つけることが重要だ。
だがそんな“発見”をするのは我々のような一般人ではない。我々とはかけ離れたクレイジーな人間たちである。
今回紹介するのは、日本でも有数のクレイジー作家高野秀行の著書で、彼の代表作とも言える傑作であり、最高にクレイジーな作品である。
内容紹介
ミャンマー北部、反政府ゲリラの支配区・ワ州。1995年、アヘンを持つ者が力を握る無法地帯ともいわれるその地に単身7カ月、播種から収穫までケシ栽培に従事した著者が見た麻薬生産。それは農業なのか犯罪なのか。小さな村の暖かい人間模様、経済、教育。実際のアヘン中毒とはどういうことか。「そこまでやるか」と常に読者を驚かせてきた著者の伝説のルポルタージュ。
「放送コードはあっても出版コードは存在しないのだろうか?」
『アヘン王国潜入記』を読みながら私の頭はそんな疑問でいっぱいになった。
なぜなら、高野秀行は『アヘン王国潜入記』において、
・世界最大のアヘン栽培地に潜入し(違法)
・アヘンの種まきから収穫
・アヘンの精製方法を詳しく解説(実際にそれでできるかは知らん)
・アヘンを実際に試している(違法)
・潜入の目的を忘れてアヘン中毒に陥る体たらく(違法というかバカ)
※外国だとしても、日本人が麻薬を使用するのは違法です。
アヘンの栽培されている様子、そこで暮らす人々。それにアヘンを使った感覚。どれもこれも知りたいことばかりだ。我々のような普通の人が普通に暮らしていたら、1000年経っても知りえない世界である。そういう意味では非常に価値のある本だろう。
だが真っ当な神経で考えれば、こんなメチャクチャな本が普通に流通していていいのだろうか、という懸念を抱かずにはいられない。世の青少年たちがアヘンの精製方法を真剣に読み込んでいたら、きっと皆さんだって不安になるはずだ。
しかしコンテンツに溢れた現代である。生半可なものでは注目を集められない。ギリギリを狙うぐらいがちょうどいいのだ。高野秀行にはぜひともさらなる「見たことがないもの」を求め続けてほしいと思う。ただ、外国のユーチューバーみたいにギリギリを狙いすぎて死なないことを願う。
アヘンは現地で“薬”
『アヘン王国潜入記』の見どころはたくさんありすぎて、いちいち紹介していたらキリがないので、一部抜粋して紹介しよう。特に私のツボに入ったポイントである。
まずアヘンについてだが、栽培している現地では薬、しかも万能の薬として認識されている。高野秀行が現地の方々に「世界ではアヘンで人が殺し合っている」と話をしても、「なぜ人のためになる薬で人々が傷つけあうのか?」と理解ができなかったそうだ。
アヘンの栽培が行われているワ州は、文化がまだまだ未発達で、娯楽も少なく物資も少ない。つまり贅沢という概念が少ない土地であると言える。
そんな場所では人々の欲望が暴走することもなく、慎ましく暮らしている。他人から奪ってまで得る贅沢が存在しないからだ。
豊かであることの意味を考えさせられるエピソードである。豊かであるからこそ、失っているものがないだろうか。
アヘンだろうが銃だろうが車だろうが、そのものに罪はなく、結局は使う人間次第なのである。
アヘンの使い心地
さきほども書いたが、『アヘン王国潜入記』では高野秀行が実際にアヘンを堪能し、さらにはアヘン中毒にまで陥っている。
アヘンなどのドラッグに手を出したいと思う人は少ないだろうが、実際に使うとどんな使い心地なのか、どんな感覚を得られるのか興味がある人は多いと思う。
『アヘン王国潜入記』では読者のそんな興味を思う存分満たしてくれる。高野秀行の巧みな筆によってアヘンの魅惑的すぎる効果を疑似体験できるからだ。
これがなかなか興味深くて、アヘンは快感を得られるのではないそうなのだ。
高野秀行いわく、「我々の頭の中にある“欲望の器”みたいなものが、急速に小さくなっていく感覚」で、それによって不安がなくなり、余計なことに頭を使わなくて済むようになるらしい。
これは仏教で言うところの“悟り”に近い感覚だと思う。仏教では「何事にも執着しないことが一番ラク」とか言われるし(乱暴な解釈)。
『アヘン王国潜入記』ではここからさらに、アヘン中毒になるとどんな症状が体を襲うのかについても克明に記されている。まともに生きていたらアヘン中毒になる機会なんて絶対にないので、これも非常に面白く読ませてもらった。
ちなみに高野秀行はアヘン中毒をなんとかするためにアルコールに逃げて、晴れてアルコール中毒になるというクレイジージャーニーの鑑みたいなことになっている。本当にどうしようもない御方である。あっぱれ。
最強のクレイジージャーニー
続いては高野秀行の紹介である。さらっと行こう。
高野秀行の名は『クレイジージャーニー』という番組でご存知の方もいると思う。
説明しておくと、「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをやり、それを面白おかしく書く」と信条とし、強烈な作品を発表し続けている作家である。
高野秀行は早稲田大学在学中に、「コンゴの奥地にいる謎の生物ムベンベを見つける」と奮い立ち、学生の身でありながら自らスポンサーを募り、探検の資金を集めることに成功した。
さすがにムベンベを見つけることはできなかったが、それでもこの行動力は桁外れである。いや、アフリカの奥地に行く人はいるかもしれないが(ごく少数だろうけど)、その理由が「オカルトチックな生物を見つけるため」だという人は絶対にいないだろう。
『クレイジージャーニー』では多数のイカれた方々が出てくるが、そんなイカれた方々からさらに「尊敬の対象」と言われているのが高野秀行である。どんだけぶっ飛んだ男からご理解いただけるだろうか。
クレイジーが平常運転
日本で安穏と暮らしている我々からすれば異常者すれすれの高野秀行であるが、彼自身からすれば意外とそれは「普通のこと」だったりする。というか、むしろ高野秀行の場合、冒険していないことの方が異常であり、常に冒険したくてウズウズしているのだ。
高野秀行の他の著書も似たような冒険譚ばかりなのだが、中には日本での日常を描いたエッセイが存在する。
こちらがそうなのだが、日常を綴りながらも合間合間で
「彼女にアフリカ現地で使われている呪いの人形をプレゼントした」
「彼女を退職させてアマゾン旅行(もちろんネットショップのことではない)に連れていく」
「タイの日本語教師を辞めて“流しの三味線弾き”になるという夢に取り憑かれた」
みたいなエピソードが散りばめられており、心底「高野秀行は生粋のクレイジーである」と思った。高野秀行にとってクレイジーは日常であり、平常運転でしかないのだ。
クレイジーというリスクヘッジ
ネットインフラが整備され、誰もが情報発信できるようになった。大手メディアの力は衰退する一方で、コンテンツを売り出すのは難しくなるばかりだ。
そんなコンテンツ戦国時代を生き残るためにはどうすればよいか?私もこうやってブログというメディアを運営する立場なので、悩みは尽きない。
しかしながら、その答えが高野秀行の生き方にはあると思う。
高野秀行が生み出すコンテンツそのものも希少価値が価値が高いのだが、高野秀行自体もクレイジーすぎてレアである。
高野秀行の生き方は一見するとクレイジー極まりなく、すぐ死にそうであるが、現代のコンテンツ戦国時代を生き抜く上では、実は一番リスクヘッジできているのかもしれない。コンテンツに勝手に箔がつく。
なんてことを考えたものの、そもそも彼のような生き方は真似しようと思ってできることではなかったりするので、凡人は凡人なりに地味に生きていくしかないなぁ、と思った次第である。
以上。