どうも。読書ブロガーのひろたつです。
この記事を書いているのが夏休み間違ということもあり、宿題と努力に関するお話。
意味ある宿題。意味ない宿題。
タイトルの通りなのだが、同じ宿題でも意味があるものと意味がないものがある。
ここで定義する「意味がない」というのは、「成長しない」ということである。
算数ドリルというのは、巻末の答えを写しでもしないかぎりは、非常に脳に負荷を掛ける作業になるので確実に能力が上がる。それは計算力というのもそうだと思うし、考える力みたいなものが付く。
本人のやる気は関係なく、筋トレのように効果が出るだろう。
その一方読書感想文であるが、本人にやる気がなければ、まったくもって成長に繋がらない。ただただ文字を埋めるだけの作業になる。だから無理矢理にあらすじを書いてみたり、語尾が長くするために「ですます調」にしたりとかいう小細工をするようになる。
姑息さを覚えるという意味では成長しているかもしれないが、あまり褒められたものではないだろう。
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主体性を必要とするか
違いが何かといえば、主体性の存在だろう。
計算ドリルは問題が明確になっているので、受動的な課題だ。
そして読書感想文というのは、問題が明確になっておらず、自らが“問題”や“価値”といったものを創造しなければならない。非常に主体性が求められる。
大体にして、感想というのは本人が勝手に抱くものであり、宿題として強制的に抱かせるものではない。人間の裡から自然と湧き出るものである。
なので、そもそも読書感想文を宿題にしていることが難しいと私は感じてしまう。
読書感想文は本好きにさせるか?
実際、例が卑近すぎて申し訳ないが、私の場合、これだけ毎日のように文学に触れていて、狂ったようにネット上にブログという名の“読書感想文”を書いているわけだが、学生時代に読書感想文を本気で書いたことなんぞ一度もない。というか、たぶん提出すらしていない。
読書感想文が一体どんな理由で宿題として課されているのか、専門的なことは知らないが、とにかく私自身の経験から言えば、「読め」と言われたら読む気を失くすし(これは今だに同じ。他人から勧められると読みたくなくなる)、感想なんぞ何も浮かばないものだ。
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努力の仕方が重要
文部科学省がどんな方針だろうが、学のない私には縁のない話であり、正直どうでもよろしい。
それよりも重要、というかここから分かるのは、課題や努力というものは、やり方によっては効果を示さないということだ。
私は職場で部下に課題を出すことがしょっちゅうあるが、いつでもそれが本人の成長に繋がることを期待して出している。
しかし冷静になって観察してみると、大して成長しているようには見えない。老化しているのは確実なのだが、こと成長に関してはその変化を見つけることができない。
たぶん、これも私が出している課題が、受動的なものなのか、主体的なものなのかを区別していなからだろう。
いや、その前に部下に対して、受動的な問題を解決する力を付けてほしいのか、主体的な問題を解決(?)する力を付けてほしいのか、明確になっていないからだろう。
その達成感、本物ですか?
課題を課して、それに取り組む。そしてクリアーする。すると達成感を感じる。そして、これからも続けようと思う。
人はそうやって成長するはずだ。
しかしながら、この達成感というやつが意外と厄介で、さきほどの読書感想文を姑息な手段でクリアーしたときのように、見せかけの達成感があるのだ。
自分のやっている努力が、筋トレなのか、それとも創造なのか。
その違いを理解せずに、幻想の達成感で終わってしまうことは多い。
あなたの努力、本当に成長に繋がっていますか?
以上。