俺だってヒーローになりてえよ

何が足りないかって、あれだよあれ。何が足りないか分かる能力。

【随時更新】小説中毒が厳選した最高に面白い小説1~100冊目
これまでの人生で買って良かったものまとめ
読書中毒者が選ぶ最高に面白いノンフィクション&エッセイ
Twitterの叡智集合。#名刺代わりの小説10選を1300人分まとめてみた

得意だけど嫌いなことを続けるべきか

f:id:summer39191628:20170701193515j:plain

 

どうも。中間管理職ブロガーのひろたつです。得意なことは自分を誤魔化すことです。どうぞよろしく。

今回は仕事の話である。

 

仕事は得意なことをやるべき

あくまでも私の観測範囲内でしかないが、仕事というのは「自分の得意なことをやるべきだ」と言われている。
その方が他人よりも高い価値が提供でき、自然と成功しやすくなる。という論理である。

間違っているとは思わないが、落とし穴がある。というか、まさに今、私がその穴にはまっている真っ最中である。

 

落とし穴の中

というのも、私は今の会社で14年以上部下を抱える仕事をしている。最初は2、3人だったが、能力を認められてか今ではめでたくも100人超えである。なんだ100って、ポケモンかよ。
そんな私なので、長らく部下を管理することが得意だと自覚していた。上司もそう判断したからこそ今のポストに私を配置しているのだろう。

でもそこに落とし穴があった。

私は部下の管理が嫌いなのだ。

なので、給料を貰っているという責任感と、嫌いな仕事をしているために発生する濃厚すぎて粘性さえも感じるぐらいのストレスとの板挟みの毎日である。

知らず知らずの内に私は限界を迎えていたらしい。いつの頃からか、眠ることができなくなっていった。

眠れなくなると体調が悪くなる。仕事のパフォーマンスも落ちる。ただでさえ下劣な人間性がさらに低くなる。こんな状態の私に比べれば野良犬の方が遥かに愛すべき存在だろう。というか元々犬は愛すべき存在である。犬、可愛いよ、犬。

 

スポンサーリンク
 


 

得意と好きは違う

f:id:summer39191628:20170701195244p:plain

 

そもそも得意と好きは違う。それゆえに大嫌いなことが得意な場合もあることを知っておいてほしい。
得意という言葉は、「得意げ」なんて言葉があるように良いイメージが伴いやすいが、正確には「上手」と同じである。みんなトイレで用を足すのは上手だろうが、大好きだという人はそれなりに少ないだろう。そういうことである。どういうことか分からんが。

また、日本人の性格的に「置かれた場所で咲きなさい」的な従順さがあるので、なおさら「嫌いだけど我慢しなければ」と考えてしまう人が多くなるように思う。
本当は嫌いで苦手なことなのだが、長い時間をかけて「得意になってしまった」場合が発生してしまう。

これが危険だ。

得意だとしても、自分の心が悲鳴を上げていれば、それは自身にとって苦痛でしかない。
自分の心を誤魔化したり、運良く自分の特性が変性して好きになれればいいが、ただ単に蓋をしているだけであれば、いつか支障をきたすだろう。あえて自分を苦境に追い込んで気持ちよくなれるファンキーな方もいらっしゃるが、まあ稀なケースなのでここでは一旦おいておく。

 

スポンサーリンク
 


 

得意なことを手放せるか

嫌いなことでも、自分のあり方を変えることで(多くは、真剣に取り組むことで)好きになるというケースもある。これは実際にやったことがある人しか分からない話だ。
でもそうそう上手くいかないこともある。そもそも真剣にやろうという意欲が出ない。そのスタートが切れない、という場合である。

給料と引き換えにその苦しみを相殺できるのであれば、そのまま嫌いな仕事を続けるべきだろう。
でも身体に不調などが発生してしまうような、報酬と我慢の均衡が保てないようになるぐらいならば、逃げ出すべきだ。人は幸せになるために生きているからだし、どんな判断を下すのも自由だからだ。

そんなことを考えて、先日のこんな記事を書いた。

orehero.hateblo.jp

 

我慢は続かない。
であれば、好きになれるように努力するか、我慢できるレベルまで改善するか、やめるか、の3パターンである。


せっかく手にした「得意なこと」を手放すのは勇気がいるかもしれない。損切りはいつだって難しいものだ。

でも、あなたは自分の人生がいつまで続くか把握しているだろうか。

私の部下でお風呂に入っている最中に死んだ子がいる。

この本で読んだが、カップラーメンにお湯を入れて3分待っている間に亡くなってしまった人もいる。

 

私たちはいつでも死ぬ。どれだけ平和な日常だろうが、好きな旅行の最中だろうが、死ぬときは死ぬ。


そう考えれば、今日という日のために、明日のためにできることが少しは明確にならないだろうか。

 

以上。