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みんな正しいかどうかよりも、不快かどうかの方が大事

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どうも。批判されるとすぐに謝る系ブロガーひろたつです。プライドは母胎に置いてきました。

 

今回は判断に関するお話。

 

不快感はすべてにおいて優先される

人を動かしたり、判断させたりする要素ってのはそれこそ山のようにあるけれど、一番効力が高いのは“不快感”だったりする。

みんなそれにあまり気付いてないんじゃないだろうか。

 

例えば、よくネットで見かける罵り合いなんかでも、最初はただの“不快感”が発端になっていることが多い。でも「不快だから」では理由にならないから、あれこれを理屈をひねり出す。理論で相手を納得させようとする。

 

例えば、誰かの評価をするときもそう。

嫌いな人だったりすると、何か悪い所があればやたらとそこを強調し、良い所があったとしてもあえて見て見ぬふりをしたり過小評価をしたりする。

 

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歪んだ管理職参上

自分の不快感を正当化するために、自分の都合の良い方向に真実を歪める、なんて経験は誰にでもあるだろう。もちろん偉そうに書いている私もある。というかそんなんばっかりである。

 

私は職場で100人を超える部下を抱えているのだが、一応管理職なので彼ら彼女らを評する使命がある。

まあそのときの私情っぷりと言ったらもう、我ながら酷いもんである。

どれだけ成果を上げたとしても、人格的に気に入らなければ容赦なしに低評価を下す。

こうなると、真実を歪めるどころの騒ぎではなく、創作のレベルになってくる。ほんとこんな管理職で会社にも申し訳ない気持ちでいっぱいである。全然反省してないけど。

 

まあ私のクズエピソードはどうでもいいとして。

不快感というのは感情である。感情の不確かさは誰もが理解していることだとは思うが(え?そんなことない?)、なぜか理論や倫理といったものよりも、意識無意識に関わらず優先してしまう。

 

本来であればどんな事象であろうとも、自分の感情とは切り離して評価したり判断するべきなのだがなかなかそうはいかない。ロボットのようにパキパキと区別できなくなってしまう。

これは一体何なのだろうか?

 

不快になってみよう

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ちょっと想像してみてほしい。

とある日本人料理人がイタリアンに情熱を燃やし、日本ではなく本場イタリアで成功したいと考えたとする。その人は苦労に苦労を重ねて、遂にイタリアの三ツ星レストランでオーナーシェフになることができた。

なんて話があったとする。

同じ日本人として非常に誇らしいし(全然自分とは関係ないけどな)、その成功を素直に喜べるだろう。遠い異国の地でイエローモンキーが認められるなんて凄いことだと思うだろう。わざわざ差別用語を使ったのは、私がこの言葉を差別だと思っていないからである。

 

その一方でこんなのはどうだろうか。

あなたが何かの理由で思いがけないようなお金を手にしたとしよう。

何に使おうか考えた末、せっかくだから普段は行けないような銀座の高級寿司店、もちろんミシュランの三ツ星店に足を運ぶことにする。

自分の人生の中で今後来る可能性はほとんど考えられないようなお店である。門前の佇まいからして自分とは別世界。期待と緊張で震える手を押さえつけながら、ゆっくりと扉を開き店内に入る。 

「いらっしゃいませ!」

あなたが目を上げると、そこにはガタイの良い黒人が板前の格好をしてカウンターの中にいた。まるでコントのような光景である。

実はそのナイジェリア人は、たまたまテレビで見た日本の寿司文化に感銘を受け、想像もできないような苦労を重ねた末、今こうして銀座の一等地で板前として腕を振るうに至っているのだ。

 

さて、どうだろう。大きな声じゃ言えないかもしれないが、正直、不快だろう?できれば渋い日本人のオッサンに握ってもらいたかったはずだ。

 

日本人が遠い異国の地で成功するのはOKなのに、なぜか外人が寿司屋で成功するのは受け入れられないこの矛盾。困ったものである。

 

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価値観、恐るべし

この手の不快感を消すことは不可能だ。

なぜなら長い間生きてきた中で、自分という人格の中に培われた“価値観”だからだ。それが快・不快を生み出している。だからもちろんそれは人によって様々だ。

私が人格的にまったく認めていない部下も、きっと違う部署に行けば最高評価をされることだろう。まったくもって気に入らないが。←おちょこ人間

 

ただ、それは“すぐに”という意味では、である。

 

々の中で自分の価値観を否定したり、疑問視したりする習慣を付けるようにすれば、自ずと新たな自分の価値観が育まれ、感じる快・不快も変わってくることだろう。

 

にんげんだもの

もうひとつ言えることがある。

人が不快という感情にすぐなびいてしまうのは、それが簡単だからだ。

感情は勝手に出てくる排泄物みたいなものである。出すのは自然なことだし、何の苦労もいらない。こと感情に関して言えば、便秘になることはない。

だが理論や倫理は違う。

人々の理解や共感を得られるようにと、積み上げられたものであり、ある種それは自然なものではない。動物的ではないのだ。

だから使うためには人間的エネルギーが必要になる。つまり理性だ。

 

勢いに任せて排泄することは簡単である。

理性を動員して正しい判断をすることは難しい、というか大変である。

 

でもこの大変な道の先にしか、人間としての成長や進化はないのだというのも、皆さん理解していただけると思う。

 

以上。

 

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