闘うりゅうちぇる
少し前にりゅうちぇるの記事を読んだ。
この記事ではとある討論番組内で、差別を助長しかねない発言をした坂上とブラマヨ吉田に対して、あのりゅうちぇるが真っ向からぶつかったそうだ。
「あのりゅうちぇる」なんて書き方をしてしまう辺り、私も見た目で人を判別してしまう低レベルな人間だという証左だろう。
りゅうちぇるの態度の素晴らしさは言うまでもないのだが、私が気になったのは、なぜ坂上忍とブラマヨ吉田は、こんなにも過激で排他的な発言をしてしまうのか?ということだった。
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強者の理論
ふたりとも成功しているからこそ大手を振って生きているが、元々はどうしようもない人間の代表格みたいな人種で、なんなら差別(侮蔑か?)される側の人間だったにも関わらず、失敗した人をさらに追い込むような発言をしてしまうのだ。
もしかしたら彼らは実際に虐げられた経験の中で、己の中の弱さや他人に付け込まれてしまう部分を、誰よりも自分自身で否定してきたのかもしれない。そして否定してきた弱い自分に打ち勝ってテレビという大舞台で活躍している経験があるからこそ、「弱いままではいけない」という価値観が身についてしまったんじゃないだろうか。
私も以前この番組を見る機会があったが、そのときは東大VS芸能人という図式だったので、地面すれすれで生きているような低学歴の代表である私は、彼らが東大生たちをボロクソに言う様を痛快に感じたものだった。ひどく性格の悪い楽しみ方だとは思ったけど。
そしてそれきり私はその番組を観る機会がなかった。
売れ続けるためには…
その後、番組がどんな空気で放送回数を重ねていたのか想像の範囲でしか語れないのだが、この記事を読む限りではあまりよくない方向に進んでいたようだ。
テレビの中の人の発言で特に評価されるのは、視聴者、つまり私のような一般人が「よくぞ言ってくれた!」と膝を打ってしまうようなコメントである。
それは例えば、思い上がった東大生に対し「お前なんかいらない」と切り捨てる坂上忍であり、「イケメンというだけで評価されるのはやってられない」と心の底から叫ぶブラマヨ吉田であった。
どちらも本人の正直な意見なのだろう。別に視聴者に媚びることを目的とした発言だとは思えない。
しかしそんな気の利いたコメントをいつまでも続けるのは難しいだろうと想像できる。文句なしの売れっ子である彼らだが、それでも「いかに生き残るか?」と考えていないわけがない。
「もっと視聴者に刺さるコメントを」「自分らしい価値観を見せつけろ」
そんなふうに自分に発破をかけ続けた結果、極端な意見に価値を見出してしまったんじゃないだろうか。誰も言わないような端っこの意見こそ「面白い」と。
排除したがる私たち
いや、こんな想像でしかない話をしたところで何の益もない。
もっと考えるべきは、私たちはなぜこんなにも排除しようとしてしまうのか?ということだろう。
上の記事で坂上忍が例に出していた、「高級寿司店の店員が黒人だったら抵抗がないか」という状況は、私だったら確実に「嫌だな」と思ってしまう。なぜかと問われれば、「イメージ」としか言いようがない。しかし、同時にそうではいけないという理性もあるにはある。イメージで人を区別してしまうぐらいのレベルでしかない私だが、自分の心に疑問を感じブレーキをかけられる程度の能力は有しているらしい。
もしこの例に対して、
「実は日本人の手のひらというのは他の人種に比べて体温が低く、魚の鮮度を落とさないという特徴があるんだよ。だから黒人が握る寿司よりも、日本人が握った方が美味いってわけ」
なんていう大嘘を並べたとしよう。
すると、たぶん多くの人は無条件で信じてしまうんじゃないだろうか。
これは別に情報リテラシーがあるとかないとかの話ではない。
「なんとなく高級寿司店に黒人は合わないよね」という自分たちが持つ愚かな思い込みを、理論が助ける形になるから「信じたく」なってしまうのだ。
同じように、「いじめ加害者は実名報道を」という話も、自分たちが持つ「クズは許さない」「愚かな人間にを酷い目に遭わせたい」という黒い欲求に対して、助け舟を出す話だから、頷きたくなってしまうんじゃないだろうか。自分の愚かな部分をテレビで活躍してしかもご意見番的なタレントがフォローしてくれているんだ、と。
受け入れるのは難しいんです
私たちはいつだってイメージや慣れや雰囲気とか思い込みとか決めつけとかいう、自分の都合でしか世の中を見ることができない。
それを否定したり、疑問視しながら生活するのはなかなか難しい。レベルが高い。
そしてりゅうちぇるのように自分と違うものを「受け入れる」のも難しい。
自分の持っている身勝手で了見の狭い価値観を否定しなければならないし、慣れていないことを恐れていてはとてもできることではないのだ。
だから私のような人間は、レベルが高い「受け入れる」から逃げるために、安易な「排除」の理由を見つけ出してしまうし、都合の良い真実を信じたくなってしまったりする。
ニュートラルに考えれば、違いを受け入れることはこんなにも当たり前のことのはずなのに…。
未熟な私たちは、少なくとも自分たちが未熟であることを自覚するべきである。
以上。
発達障害の僕が 輝ける場所を みつけられた理由 | ||||
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