俺だってヒーローになりてえよ

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「泣ける」と「感動する」をごちゃ混ぜにしてしまう人が嫌い

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感動ポルノなんて話で盛り上がってから久しいが、とにかく人間は感動する話がすきである。

別にそれは構わない。感動することは人生において、非常に大切なことだと思っているし、何なら感動こそが人生の目的だと考えているくらいだ。

だが最近の風潮を見ていると少々気になる、というか気に入らないことがある。

何だか皆さん、「泣ける」と「感動する」をごちゃ混ぜにしてやいませんか?

 

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死んだら感動

というのも、「感動する」と評判の作品を見たりすると、大抵が「ただ単に重要キャラクターが死ぬだけ」だったりするのだ。

私はそういう作品に出会うと、本当にガックリする。あまりの安直さに、全裸で銀行強盗がしたくなってしまう。別に深い意味はないが。

大事な人が死ぬと悲しい。涙が出る。それを「泣ける」と言うのは分かるが、なぜ「感動する」にまでレベルアップさせてしまうのか。もうちょっと自分の感情に区別を付けられないものだろうか。

死ななかったとしても、重い病気になるなんていうパターンもある。これも感動ではない。みんな勘違いするな。

例えば、橋を歩いているときに誰かが飛び降り自殺をしようとしていたとしよう。その人はあきらかに死にたがっていて、身なりはボロボロ、顔は真っ青だ。きっと死にたくなるほど辛い思いをたくさんしてきたのだろう。

それを見て、「感動した」とは言うだろうか?私からすれば、泣けるだけの作品(誰かが死ぬだけの作品)で「感動した」と言っているのと同じである。感動してる場合じゃないだろ、早く助けてあげろ。

みんな他人の不幸を養分にしすぎだと思う。そういうのは下品と言うんじゃないだろうか。もうちょっと節度をわきまえてはいかがか。

具体例

じゃあ感動って何よ?とあなたは問うかもしれない。

と、私は適当に書いてみたが、もしあなたが本当に「感動って何よ?」と思っているのであれば、私から言えることは「知らんがな」である。あなたの感動の基準なんぞ私が知るわけがないだろう。

 

ちなみにこの記事で言っている、泣けると感動の違いの具体例はこれである。

 

泣ける

 

 

感動

これである。オトナ帝国は誰も死なないけど、涙が出る。感動というのはこれのことを言うのだ。みんなオトナ帝国を見ろ。

なぜそんなにごちゃ混ぜにしてしまうのか? 

それにしても、なぜみんなそんなに「泣ける」と「感動」をごちゃ混ぜにしてしまうのか?

多分だが、涙を流したときの快感を「感動」と呼んでいるじゃなかろうか。

 

悲しい物語を見る←この時点ではまだ普通の人

悲しい

泣く

ストレス発散(気持ちいい)

物語を見終わる

泣いてスッキリしてる

あたし、なんか気持ちいい

この爽快感は「悲しい」じゃない

あたし、感動したんだ。

翌日

あれ、超感動するよ!」←アホになりました!

 

こんな感じで一晩で普通の人がアホに様変わりしているのだと予想する。

アホみたいだが可愛らしいとも言える。もちろんアホとも言えるが。

 

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ちゃんと評価しよう

みんながそうやって「泣ける」作品を「感動作」に仕立てあげてしまうから、世の中の物語は死のバーゲンセール状態である。

「とりあえずこいつ殺しておけば、客は悲しむでしょ」

製作者側のそんな言葉が聞こえてきそうである。客を舐めきっている。

それではいかんのだ。

みんなには関係ないことかもしれんが、私のように物語を愛し、人生の一部しているような人間からすると、そんな「ありふれた物語」ばかりが世に出回ったらたまったものじゃない。「またこのパターンかよ!」となってしまう。

物語だって商品である。消費者がちゃんと評価しなければ(甘やかしていれば)適当なものが横行してしまう。 

別に物語を批評しろなんて言わない。そんなことは私にだってできない。

ただ、自分の感情が何だったのかぐらい分かっておいてくれ。

 

それくらいできるだろ?

 

以上。