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つまらない小説は悪なのか?

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どうも。

昨日のバズから一夜明け、色々と思うことがあったのでまとめたい。

ちなみにバズった記事はこちらである。

orehero.hateblo.jp

読んでも読まなくてもこの記事に影響はない。

 

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つまらない小説

この世にはつまらない小説がある。

具体名は出さないが、これはとんでもない話である。

そもそも小説とは人を楽しませること(もしくは人の心を動かすこと)を役割としている。それなのにつまらないということは、任された役目を全うしていないということである。

それこそ、メシがまずい飲食店、態度の悪い店員、みたいなものだ。サービスをする側がサービスを放棄しているのだ。もっとひどいかもしれない。まだメシがまずいだけなら、最低限の腹をふくらませるという役割は果たしている。

なのでつまらない小説というのは、メシを出さない飲食店、髪を切らない美容室、老人に暴力を振るう介護士、何も分析しないコンサルタントみたいなものだと思う。

まあさすがにそれは言いすぎだが、とにかくつまらない小説に出会うと、純粋な殺意が芽生えるものだ。これは一体何なのだろうか?

確かに、つまらない小説を読むために費やした時間はムダになる。時間をムダにしたということは、人生をムダにしたということである。つまり、つまらない小説に人生を奪われたのだ。これはある意味、緩やかな殺人行為である。

そう考えると、つまらない小説に出会ったときに湧き上がる殺意は、ある意味、人間の防衛本能なのかもしれない。殺されそうになっているのだから、相手に殺意が芽生えるのは当然のことである。

この辺は掘り下げるともっと面白い事実が潜んでいそうだ。ヒマな人は勝手にほじくり返してくれ。私はもう引き返す。何でもそうだが、行き過ぎると引き返すことができなくなるものだ。

つまらない小説の価値

少々筆が滑ってしまった。本題に戻ろう。というかそもそも本題なんてあったのかどうか疑問であるが、まあ先に進もう。でもどっちに行けばいいのやら。

ふざけるのもここまでにするとして。

私ほどの聖人君子をしても殺意が湧いてしまう、この「つまらない小説」というやつの価値について考えたいのだ。

「つまらない小説」にぶち当たると、人によっては壁に投げつけたりする。俗に言う「壁本」というやつである。さすがにそこまで野蛮な行為を私はしたことはないが、床に叩きつけたことぐらいなら、ままある。

他にも「ゴミ箱に突っ込んだ」「他に被害者が出ないように裏山で燃やした」など、とにかくみんな「つまらない小説」は処分しようとする傾向が見られる。

でも本当にそこまでするほど、「つまらない小説」には価値がないのだろうか?

私を含めみんな、あまりにも感情的になりすぎていやしないだろうか?

ハズレの価値

別の事例で考えてみよう。

例えば、宝くじの底辺と言えばなんだろうか?

それは「ハズレ」である。

ハズレには何の価値もないように思える。つまらない小説と一緒である。

ギャンブルのハズレを引いた人というのは、つまらない小説と出会った人と同じような行動に出る。投げつけたり捨てたりだ。

しかし、そんな虐げられがちな「ハズレ」にも確かな価値がある。

私の足りない頭で考えても2つほど、それは挙げられる。

ひとつは、どん底という価値である。

ハズレという、どん底を知っているからこそ、当たりの価値が分かる。常に当たっていたら、そこには何の感動も喜びもないだろう。有り難みもないだろう。まさに無価値である。「難が有って有り難い」、というのは仏教の言葉だ。

もうひとつは、当たりの養分になるという価値である。

ハズレがあるからこそ当たる人がいるわけで、ハズレがなければ当たる人もいない、というのは当たり前の話である。ハズレ前の話ではない。ハズレ前の話とは何だろうか?買わないということかもしれない。

ハズレは当たりの養分である。かっこ良く言えば礎である。別に養分という言葉が格好悪いと言っているわけではない。何となくである。

ハズレを引いた人達の死屍累々の上に、当たった人が立てる。これはギャンブルだけの話ではない。世界は基本的にそういうふうに出来ているように見える。真実は知らん。

 

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辛い体験があるからこそ…

この記事を読んでいるあなたの一番好きな作品はなんだろうか?

もし面白い本だけに出会っていたとしたら、その作品に出会えた時の感動は変わらずそのままだっただろうか?

この辺りに、つまらない小説の価値が潜んでいるような気がする。気がするだけで存在自体は未確認である。

人生で味わう体験は何でもそうだが、辛い体験があるからこそ、楽しい時や好きな人との時間で味わう感情に価値が増す。底辺に触れることはなにも無価値ではないのだ。

散々転んだ後に乗れた自転車や、クソみたいなやつと出会った後の友人との語らい。孤独に苛まれた自分を包んでくれる恋人や伴侶の存在。

どれもかけがえのないものである。

サービスを受けているから、と思うな

もうひとつ大事なことがある。

消費者意識とでも言うのだろうか。ちゃんとした言葉がありそうだが、「金を払っているんだから、自分は快感を得るはずだ」という思い込みが客には基本的にある。

だからこそ、つまらない小説に出会った時や、態度の悪い店員に出会った時に、異常に不愉快になってしまうのだろう。

だが、金を払ったからといって、サービスを受ける側だからといって、常に快感を得られるとは限らないのだ。

極論だが、あなたがもし変態だったら世のサービスのほとんどを受け入れられないことだろう。どんな変態でも構わないが、素足で寿司を踏みつけている女の人が好き、みたいなやつだ。

いつだって人は自分がまともだと思っていて、自分の見ている世界に自分なりの常識を作ってしまう。自らの変態性や、欠けている部分には目もくれずにだ。

あなたが聖人君子であれば、きっとどんなサービスに触れようが、どんな作品に出会おうが、穏やかな微笑みを浮かべ、ゆらぎのない水面のような心で接することが出来ることだろう。

そうでないのであれば、どれだけサービスをする側が努力をしようが、誰かしらは不快になるってもんだ。だって、私なんかはあまりにも丁寧な対応をされるだけでも不快になってしまう。他人に気を使わせている状況が嫌いなのだ。放っておいてほしい。

まあ私の癖の話は置いておくとしても、あなたがつまらない小説をつまらないと思うことは、結局の所、あなたの受け皿の小ささが原因なのだ。

 

以上、健闘を祈る。