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いつも一緒にいた部下が死んでも悲しくなれなかった話

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ろくでなしの話である。

 

部下が死んだ

私の部下が2ヶ月前に死んだ。未婚の女性である。

風呂場で心臓発作を起こして倒れている所を家族に発見されたそうだが、その時にはすでに息を引き取っていた。

彼女が死んだその日、私はいつも通り仕事をしていた。彼女もそうだった。

私には100人を超える部下がおり、会話をしない人なんてざらで中にはタイミングさえずれてしまえば、挨拶さえしない人もいる。

その日、彼女の様子がどうだったか私は思い出せない。きっと大した会話もしなかったのだろう。

ただ彼女が帰った時間は日誌に残っているので分かる。17時30分だ。

会社でタイムカードを打った彼女は、その3時間後の20時30頃に亡くなることになる。

 

人が亡くなることは当たり前のことだが、それでも不思議なものだと思わずにはいられない。

 

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冷静な頭

彼女の訃報を知ったのは翌日の朝だった。上司がやけに真剣な顔で伝えに来た。

そのとき上司から相談を受ける。この件をすぐにみんなに伝えるべきかと。

人ひとりが亡くなった話をしているのに私は恐ろしく冷静だった。すぐに「いや、仕事に支障が出るので帰りにしましょう」と判断した。残酷なものだが「彼女が亡くなった事実は変わらないし、いつ伝えようが構わないだろう」とも思っていた。

上司との対話を終え、職場に向かって歩いているときに私は「あぁ、人の命を軽んじてしまったなぁ」という後悔ともつかない感情を抱いた。

やってこない悲しみ

その日の仕事終わり、私はみんなを集め彼女の訃報を伝えた。亡くなったときの様子も伝えた。

みんな一様に驚きの表情を浮かべていたが、悲しみに暮れる様子はなかった。

私もそれは同じだった。

彼女が存在しないまま職場で一日過ごしたわけだが、私の頭の中には何の悲しみも動揺も訪れなかった。

次の日に行なわれた通夜に参加してもそれは同じ。いつまで経っても私の心の中に彼女を亡くした悲しみはやってこなかった。

死とは特別であるはず

亡くなった彼女と仕事をするようになってもう5年ぐらいになる。ほぼ毎日顔を合わせる人間だったし、時には彼女の相談を聞くこともあった。鬱だと告白され、職場を移動させてくれと懇願されたこともあった。理由は人間関係の問題だった。私の権限の範囲内で部署移動をさせたあとの彼女のほっとした表情が思い出される。

 

「人の死は特別なはずなのに…」

そんな考えが、悲しめない私の感情を否定し続けていた。いわゆる自己嫌悪というやつだ。

特別ではない死

言い訳めいたことを書く。

思うに、一緒にいた時間というやつはあまり関係ないのかもしれない。亡くなった彼女と過ごした時間は長かったかもしれないが、プライベートなことは何も知らない。KinKi Kidsの大ファンだったことも通夜で知った。

彼女のことで知っていたのは、性格、得意な仕事、苦手な仕事、職場での人間関係だけである。なぜかと言えば、私にはその情報だけで十分だったからだ。

つまり彼女は私の中で「職場の駒」でしかなかったわけだ。

現に彼女がいなくなっても職場は何の変化もなく、同じ毎日が続いている。彼女が担当していた仕事も他の人がやっている。彼女がいた形跡はもうない。

職場だけでいえば彼女の死は特別なものではなかったのかもしれない。私は彼女の死そのものよりも、その事実が悲しかった。

悲しみの正体は?

彼女と接していたときの自分を思い出すと、パターン化された対応をしていた気がする。そこにはほとんど感情と呼べるものがなかった。

「こう言ってるから、こう返す」「こうしてるから、こう話す」

ひどく無機質的なものだった気がする。

 

人の死を悲しいと思わせるものはなんだろうか?

私の経験を見ると、「人の死=悲しい」ではないようだ。

例えば私の家族や親しい友人の死は間違いなく悲しい。想像しただけで涙が出てきそうだ。

この正体はなんだろうか?

死とは喪失感である

私が敬愛する作家である乙一の小説の中にこんな一節がある。

やっと分かった。死とは喪失感なのだ。

 

家族や親しい友人のと一緒にいるとき、特別な気持ちになる。大事な人というのはそういうものだと思う。

きっとこの特別な気持ちを抱くことが、死を悲しめるかどうかに繋がる。

その人を特別に思う自分、その人といるときの自分が、死というものによって一緒に失われることで悲しみを感じる。言わば、自分の一部が一緒に死ぬようなものだ。

代替可能な仲間たち

人の死をものともせず変わらずに毎日を過ごせる私の職場は、残酷でもあるが、優秀でもあると思う。

職場にいる誰もが代替可能で、誰がいなくなっても変わらない毎日が続く。それは当然私も同じことだ。私がいなくなっても誰かがまた100人の部下を抱えるだけだろう。

そんな諦観を持ちつつも、私は疑問を感じぜずにはいられない。

死んでも悲しめない人たちと過ごしていて、いいのだろうか。このまま代替可能なままの人生を送り続けていいのだろうか?

もしかしたらこれは贅沢な悩みなのかもしれない。居場所があるだけでも感謝するべきなのかもしれない。

あいにく私はこの疑問に対する答えを持ち合わせていない。今も悩んだままだ。

 

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彼女を思い出すとき

ときおり私は職場でみんなを集めて話をすることがある。

自分の目の前に100人を超える人間が並ぶのはなかなか壮観である。最初は緊張して上手く話せなかった私だが、今ではひとりひとりのリアクションを確かめながら話せるほど余裕がある。

彼女が亡くなった今、そのことを忘れて、みんなの顔が並ぶ中に彼女の顔を探してしまう時がある。

そしてそこにいないことに気付いた時、短い生涯を遂げることになった彼女の人生に思いを馳せる。

 

悲しみとは呼べないかもしれないが、そうやってときおり思い出す。

それが弔いになってくれればいいと、ろくでなしな私は思うのだった。

 

以上。