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映像化なんて劣化でしかない。言っておくけど小説が最強だから。

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どうも。

相も変わらず世の中にはベストセラー小説の映像化が溢れている。

小説を愛する私としては、それによって出版会にお金が流れてくれるのであれば全然構わないし、新規の顧客を生んでくれるのであればそれに越したことはないと思う。ニワカを否定するほど私は心の狭いマニアではないのだ。いつだってニワカが大きな資金源になるものだ。ぜひとも新たな才能を発掘するための養分になってもらいたい。

 

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原作の偉大さ

それはともかくとして、私には気に入らないことがある。

というのは、映像化した作品をべた褒めすることである

どれだけ映像化した作品のクオリティが高かろうが、再現性が高かろうが、そんなことは一切関係ない。むしろそれらは「原作がいい」という土台の上に成り立っていることを理解してもらいたい。

それを十分理解していれば、そんなに簡単に映像化作品を褒めようとは思わないはずだ。

「キャストが良かったよね~。まあそれも原作の良さがあってこそだけど」

「超泣けたー!原作の力だね!」

「最高でした!原作者の方、ありがとうございます!」

映画館から出てきた観客にインタビューをするCMをよく見かけるが、こんな風な感想を聞いた試しがない。一度もだ。

私はこれを「原作が軽んじられている」と感じている。

分かる。「そんなことまで考えながら映画は観ないよ」と言いたいのであろう。

だからこそ私は言いたいのだ。「原作の偉大さを理解しろ」と。

映像作品にはできないこと

原作がいいからと言って、映像化した作品がいいものなるとは限らない。それは私も十分理解している。限られた予算や時間の中で映像化を行なっている制作陣には、素直に頭の下がる。私にはないスキルだ。

だが、私の思いはまた別のところにある。スタッフが偉大であることとは全く別のところだ。

それは「小説に勝る表現手段はない」ということだ。

映像作品にはできないことがたくさんある。

以下に具体的な例を挙げていきたいと思う。

 

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予算

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実写化するにあたり一番のハードルになるのがこれだ。

話のスケールが大きければ大きいほど予算がネックで苦戦することだろう。

予算を掛けないためにもCGを使ったり、登場人物を減らしてみたり、場所を海外から熱海に変更したりする。外人だった人を日本人にしたりと結構作品の根本部分であるところを妥協したりもする。

どれも物語に支障が出ない範囲で行われることだと思うが、それでも「原作の味を落とす」ことは間違いないだろう。どんな言葉を並べたところで妥協は妥協だ。

その点、小説は文字で表現される世界なのでいくらも話のスケールを広げることができる。海外も余裕で使えるし、現実であれば一人あたり3000万ぐらいかかる北極にだって簡単に行ける。宇宙もお手のものだし、何なら人類が未だに見つけていない星を登場させることだってできる。

予算は映像作品において非常にネックになる問題だ。むしろこれが基本になっていると言っても過言ではないと思う。

キャスト

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これは誰もが感じる部分だと思うが、小説と映像化作品で出てくるキャストのイメージが違うことがよくある。これはこれで大きな問題だが、映像化作品はそもそも原作のファンを狙ったものではないと思うので、無視してもいい部分だろう。私が思うのは少し違うところになる。

 

当然の話だが、小説で出てくる登場人物には顔がない。

イラストで紹介されているライトノベルは例外として、キャラクターたちの容姿を頭の中で作り出さなくてはいけないわけだ。面倒な作業とも言えるかもしれないが、実の所、読者(観客)にとって一番自然な表現方法なわけだ。

俳優を使うと癖だったり、顔の特徴や表情の作り方など自分の好みとは違う部分が多少なりとも存在してしまう。細かいことを言えば、笑った時の目元のシワとか。

そういった些細な部分でも、気になってしまえば作品を味わう上で障害となってしまう。生身の人間を使う上で避けては通れない道だ。

出てくる俳優女優の好き嫌いもあるだろうし、「あの作品では母親役だったのに」とか「もうこんなに老けたんだ」とか雑念が入ることが多いのだ。

小説ではそういったことは一切ない。スムーズに物語世界に没頭させてくれるのだ。

演技

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物語とはドラマである。ドラマとは感情の動きだと私は考えている。

感情を表現する際、映像化作品では俳優女優、声優の演技力が鍵になる。編集や撮影方法などで表現することもあるが、ここは人間に焦点を当てたいと思う。

演技は難しい。バランスと挑戦の上に成り立った高度な表現方法だ。

普通にやれば絶対に伝わらない。だけど過剰にやるとお寒くなる。伝えるにはそれなりの方法を取らなければならない。だがそれは誰にでもできるものではない。限られた人間に備わった特殊な能力だと私は思っている。

なので、映像化作品に出てくる人たち全員が、観客を説得するだけの演技力を持っているかと言うとそうではないのが現実である。上にも書いた通り、映像化にお金の話は付き物で、お金を集めるためにはジャニーズとか吉本とかに媚を売らなければならないわけだ。

そしてその媚によって作品に傷が付いてしまうことがあることは、皆さんもよくご存知だろう。

しかし、小説であれがそれは全く問題ない。

「彼女は怪しげに微笑んだ」とか、「その見た目とは裏腹に暴漢達を次々となぎ倒してしまった」とか「その顔には『バカじゃないの?』と書いてあるようだった」なんてこともできるわけだ。

これを実写化しようとすればそれなりのものが求められるが、小説であれば余裕で表現できてしまうわけだ。登場人物たちに”演技”をさせる必要がないのだ。

表現

さっきから何度も「表現」という言葉を使ってきたが、ここで説明する「表現」はそれらとはまた少し違う意味合いの表現になる。

例えば作中で「観客が黙るほどの歌声」が出てきたとしよう。BECKのコユキ的なやつだ。

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これも映像化作品ではかなり高いハードルになるだろう。

観客が黙るほどの歌声というやつは実際に存在するのだが、それは生で聴いているからこそのものであって、作品のいちシーン程度で表せるものではない。

簡単なところでは「絶世の美女」なんてのもある。

小説世界ではほいほい出てくるが、絶世の美女はそんなにいない。いくら女優たちが美人揃いだとしても「絶世の美女」には勝てないだろう。

他にも時間も映像化作品が苦手とするものだろう。同じ登場人物の容姿や声の変化に、生身の人間だと耐えられなくなってしまうのだ。

「ショーシャンクの空に」という映画をご存知だろうか?名作なので多くの方が観ていることだと思う。

この作品の中で、主人公のアンディは刑務所の中で20年という歳月を過ごすことになる。2時間ちょいの映画なのだが、その中で20も歳を取らなければならないのだ。

実際の映画の中でアンディの風貌にはそこまで変化は見られない。当たり前だ、同じ俳優が演じているのだから。

多分、映画を見た多くの方が「アンディ、20年経っても見た目が変わらないなー」と心の中でツッコみつつも、「でも人間がやってるんだから仕方ないよな」と暗黙の了解的に納得している。

だが、それは観客が気を使ってくれているだけで、表現としては失敗していると言わざるを得ない。いくら魔法の国だからといっても、着ぐるみのつなぎ目は気になるだろうし、背中のチャックは目に入ってしまうものだ。

 

このように小説世界では当たり前にできることが、こと映像化作品では非常にハードルが高かったり、そもそも表現することができなかったりするのだ。

小説が最強だと私が主張する最大の理由がこれである。

ちなみに『BECK』では主人公コユキの天才的な歌声を表現することを諦め、「コユキが歌うと無音になる」という荒業で凌いだのだった。これも観客の「仕方ないか…」に甘えた表現方法だと言わざるをえない。

 

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小説こそ最強

以上が私が小説が最強だと主張する理由になる。

小説は文字だけで行なわれる表現で、そこにはある程度の想像力と理解力が求められる。映像作品に比べ敷居が高いことは認めよう。

だが、その先に広がる表現世界の広さは永遠とも言えるほどだ。小説は私たちの脳内で想像を越えたものを想像させてくれるという、無二の体験をもたらしてくれる。

普段小説を読まない方には、ぜひこの甘美な世界に足を踏み入れてもらいたい。

他のジャンルを貶して小説の素晴らしさを伝えたいわけではなく、単純に「小説こそが最強」だという事実があるからこそ、こうして筆を取った次第だ。

 

以上、健闘を祈る。