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矢部太郎『大家さんと僕』が売れる理由

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芸人矢部太郎初の著書『大家さんと僕』が売れている。この出版不況の時代に、発売から1ヶ月で11万部を突破したというから快挙である。これには出版社も、矢部太郎も思わず笑みがこぼれたことだろう。

Amazonのユーザーレビューを見ると、2018年6月現在200件以上の評価が付いているにもかかわらず、☆5である。これはちょっと異常だ。普通の書籍であれば、評価の数が増えれば増えるほど☆3に近づいていく傾向がある。観測した印象だと100件越えると、☆3~☆4に収まるように見える。特に『大家さんと僕』のようにメディアで紹介され「話題作!」的な扱いをされる作品だとこの傾向は顕著だ。読者の中で事前にハードルが上がってしまい、「期待はずれでした…」なんていうパターンがよくある。というか、そのパターン以外を見たことがないレベルである。私も今まで何回騙されてきたことか…。

さて読書中毒ブロガーの私としては、そんなに売れまくっていて、さらには異常な高評価を獲得している本を体験しないわけにはいかないだろう。

『大家さんと僕』がなぜそんなにも売れるのか。そして評価され続けているのか。

その理由に迫ってみたい。

 

作品概要

 

 

1階には大家のおばあさん、2階にはトホホな芸人の僕。挨拶は「ごきげんよう」、好きなタイプはマッカーサー元帥(渋い!)、牛丼もハンバーガーも食べたことがなく、僕を俳優と勘違いしている……。一緒に旅行するほど仲良くなった大家さんとの“二人暮らし”がずっと続けばいい、そう思っていた――。泣き笑い、奇跡の実話漫画。 

 

独特のほっこりしたイラストに、大家さんとのほんわかエピソード。それだけであれば、ただの「癒やされる作品」なのだが、そこに矢部太郎の芸人としてのモラトリアムや大家のおばあさんの孤独などが絡み、ちょうど良い苦味が生まれている。つまり奥深い味わいがある、という意味である。

「奇跡」とか「泣き笑い」というのはちょっと言い過ぎだが、確かに胸に迫る作品だと思う。

 

素直な感想

いざ読み終わってみての素直な感想だが、そこまで売れる作品だとは感じなかった。
別に批判をしているわけではなく、作品自体のクオリティが平均値である、という意味だ。さらに言うと「世間の評価に流されないオレかっけー」というつもりもなく、ひいき目なしに見ての判断である。

これでも私はこれまでに数千冊の本を読んできた人間である。フィクション、ノンフィクションに関係なく、さまざまな名作も駄作も読んできているのである。その数千冊の中で位置づけるとしたら、やはり『大家さんと僕』は平均値だ。

 

売れるコンテンツに必要なもの 

しかし、その一方でこんなにもみんなが「名作だ!」と感動してしまう理由もいくつか思い至った。

それは「これからの時代で売れていくコンテンツ」に必要な要素でもある。

ざっとまとめてみよう。 

 

・快感を刺激する

・“かわいい”と“見下し”

・応援されること

 

この3つになる。決してこれだけが売れるコンテンツに必要な要素ではないだろうが、『大家さんと僕』に限って言えば、この3つの要素が非常に効いている。

 

では以下に、詳しく解説していこう。

 

快感を刺激する

コンテンツの目的をご存知だろうか。

これはもう至極簡単明快。下品極まりない答えがある。

それは「快感を得ること」である。これ以外にはない。他の理由はぜんぶ快感のあとに来るものだ。

なのでコンテンツにとって重要なのは、そのコンテンツに触れた人に「どんな快感を与えるか」を決めることである。効率よく畳み掛けるように快感を繰り出してもいいし、鬱屈に鬱屈を積み重ねて最後の最後でカタルシスを与えるやり方もある。

もちろん人によって快感のツボは違う。なので万人受けするコンテンツというのはなかなか作り出せるものではない。特に現代のように、モノがあふれ豊かになっていると、それだけ人の好みは多様化する余地がある。モノが少なければそもそもの選択肢が限られるので、みんなが同一方向を見るが、今の日本ではもうありえない話だ。その証拠に、自分の趣味を共有できる人が身近にいるだろうか。共感してくれる人がいるだろうか。多くの人はネットにそんな仲間を見つけているはずだ。

とまあ、それくらい快感は多様化してしまい、なかなか多くの人のツボを一気に突くことは難しいのが現状である。

 

“可愛い”と“見下し”

しかしながら、この“快感のツボ”。実は最大公約数的なものがある。

それが「可愛い」である。『大家さんと僕』にはこの「可愛い」によって、多くの人の心をつかんでいる。

 

ではなぜ『大家さんと僕』を可愛いと感じてしまうのだろうか。

 

確かに矢部太郎の描く力の抜けたイラストもそうだし、作品の空気をほぼ支配している大家さん(88才)の言動もそうだ。非常に“可愛らしい”。

 

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人間の本能に訴えかけるこの“可愛い”という感情。これは“美しい”とはまったく別の感情である。

基本的に人は自分よりも劣るものにしか“可愛い”と感じない。言い換えるならば、これは“見下し”である。

子供や動物をかわいいと感じるのは、見下しているからだ。また、誰かのドジな一面や不格好な様を見てかわいいと感じるのも、同様の理由からである。

勘違いしてほしくないのだが、別に「見下すことが悪い」と言っているのではない。単に説明をしているだけである。

 

で、逆に美しさは見上げる視点から生まれる。自分よりも高い位置にあるものに対して人は「美しい」という感情を抱く。

 

「可愛い」と思うと人は幸福感に包まれる。それは全能感にも近いものがあると思う。満たされる感覚である。

これは見下す対象を見つけたからこそ得られるものであり、自分が美しいと感じるものを見てもそうはならない。美しいものを見たときは、むしろ自分の不完全さを見せつけられることで、劣等感につながるかもしれない。

 

なので多くの人は「美しい」よりも「可愛い」を求める。「可愛い」は安心できるし、見下す対象があることで自己肯定にもつながるからだ。

繰り返すが、これは別に悪いことではない。どんなことで快感を得ようとその人の自由である。まあ、性癖なんて自由にならないのが常だが。

 

応援されること

で、そんなとっても可愛い『大家さんと僕』だが、もうひとつ大事なポイントがある。

それが「応援される作品」だということだ。

 

売れない芸人である矢部太郎は、芸人なのに舞台が苦手でトークも上手くできない。笑わせるよりも、笑われることで仕事が成り立っているような状態である。

大家さんは高齢ながら一人で生活し、お金に不自由ない生活を送っている。しかしその一方で孤独さを抱え、死について思いを馳せている。

とても嫌な言い方になるが、矢部太郎と大家さんは多くの人にとって害のない存在である。みんなが生きていく上で、矢部太郎や大家さんが邪魔になることはまずないだろう。

つまり、ふたりの存在が多くの人にとって損得に関係ないのである

そして矢部太郎と大家さんのふたりは、それぞれに悲しみ抱えていて、不器用ながらもお互いを支え合って奇妙なバランスを保っている。ゆっくりとだが、ふたりで歩んでいる。

 

そんな姿が『大家さんと僕』では全編を通して描かれる。

となると、これはもう応援したくなるのが人情というものだ。こんな弱々しい人畜無害な存在を応援しないで何をする。圧倒的に「可愛い」存在である。

 

 『大家さんと僕』は異常に評価が高い。というか、高評価しか存在しない。

その理由はつまり、「大家さんも矢部太郎も、もうすでに世間の中で低い存在(に感じられる)」からである、と私は思う。すでに低評価の存在にわざわざ「低評価です」と言う必要はないのだ。

マイナーなアーティストがやたらと祭り上げられて、メジャーがバカにされる現象も似たようなものである。

 

終わりに

このように『大家さんと僕』は、そもそも敵を作らない作品なのだと言える。

 

今の時代どんな要素から炎上するか分からない。簡単に敵が作れてしまう。

それでも売れるコンテンツを作るためには、「可愛い」と思われるような下の存在であること。攻撃されるような強い存在ではないこと、が大事なのではないかと思う。つまり「弱者マーケティング」だ。

そういった意味では『大家さんと僕』はむしろ最強だし、赤ちゃんが無敵なのと同じ状態だと思う。

実際、この記事を書いている時点で『大家さんと僕』は55万部を突破している。印税の金額を考えると、とても弱者とは言えないだろう。そして私はやっぱり思ってしまう。「売れてよかったね」と。

 

そう思わせてしまうのが、この作品の強みなのである。

 

以上。