ハズレ映画のお話。
脳みそ未使用
映画が好きだ。当然面白い映画が好きだ。でも私は面白い映画の探し方を知らない。
そうなると、頭の弱い私は「有識者の意見を鵜呑みにする」という選択肢をとる。とってもラクチンである。
そんな私が参考にしているのが、最近はラッパーなんだか映画評論家なんだかよく分からなくなってきているRHYMESTER宇多丸による映画批評である。ラジオなのだが、私はネットで録音されたものをかなりよく聞いていた。今では過去のものがほとんど無くなってしまって悲しい限りである。
彼の映画批評は映画自体を観ていなくても面白く、ハマるとひたすらに批評だけを貪るという状態に陥る。次第に宇多丸の喋りに洗脳されていく。
そうなると「じゃあそんな最高に面白い宇多丸がオススメする映画ってのは、どんだけ面白いんだ?!」となるのは人情だと思う。
で、今もやっているのか分からないけど、毎年宇多丸独自の映画ランキングを作ってくれていた。こんなに分かりやすいものはないだろう。当然、ミーハーな私は食いついた。
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期待外れすぎて宇多丸の買収を疑う
そのときに食いついたのが『サイタマノラッパー』だった。
どうだったかと言えば、全然としか言いようがない。まったく響かなかった。途中少しは笑えるシーンもあったが、全然ダメだった。正直「こんなのが1位?」と宇多丸の感性を疑うほどだった。
知らない人がこの記事を読むとは思えんが、一応『サイタマノラッパー』の内容を紹介しておく。
サイタマ県の片田舎で不器用にラッパーを目指す青年たちの、どこか哀しく、やがて可笑しな日々。
北関東のど真ん中、レコード屋もライブハウスもないサイタマ県北部のフクヤ市。デコボコなヒップホップグループ「SHO-GUNG」の仲間たちは、まずはフクヤ市でライブをやろうと夢見ている。
しかし現実は・・・。
主人公のイック(駒木根隆介)は仕事がなく家族から邪魔者扱いされている「ニートラッパー」
親友のトムはおっぱいパブでのバイトが忙しい「おっぱいパブラッパー」
後輩のマイティは実家のブロッコリー畑で一攫千金を企む「ブロッコリーラッパー」
彼らは「病弱なタケダ先輩」らの力を借りて、自分たちの曲を作りライブをやろうとしている。
そんなある日、高校の同級生の千夏(みひろ)が東京から帰ってきた。千夏は高校を中退して東京でAV女優として活躍し、また地元に帰ってきたのだった。些細なすれ違いから、千夏のことを巡って次第にラッパーたちの夢がバラバラになっていく。やがてイックは夢をあきらめるかどうかの決断を迫られる・・・・。
こんな感じの内容なので、観たら爽やかになるような青春ムービーを期待していたのだが、見事に裏切られてしまった。 爽やかさはゼロ。かと言ってもがき苦しんでいるようなものかといえばそうでもない。そうだな、「駄作」という評価が妥当じゃないだろうか。
別に私はハリウッド映画のようなものを求めていたわけではない。ただ単純に面白い映画を観たかっただけであり、派手でも地味でもどちらでも良かった。でもその願いは叶わなかった。
この現象は一体何だったのだろうか?
他にも宇多丸が絶賛していた作品を観てきた。
『第9地区』、『十三人の刺客』、『愛のむきだし』、『グラントリノ』などなど、名作ばかりだった。たしかに少しは「大絶賛というほどでもないかな?」という作品はあったかもしれないが、それでもここまで大外れ、というかどこを評価しているのかさっぱり理解できない作品はなかった。
宇多丸に限ってそれはないだろうが、制作サイドから金をもらっているレベルで不可解である。
宇多丸のメタ評価
少し考えてみて分かったことがある。別に宇多丸が買収されている証拠を掴んだわけではない。なぜこんなにも宇多丸と私の間で『サイタマノラッパー』の評価に乖離が生まれたのか、である。
以前、宇多丸が『十三人の刺客』のレビューの際に語っていたある言葉が思い出される。
「一位にする意味」
『十三人の刺客』は娯楽エンタメとして、非常に素晴らしい作品である。特に稲垣吾郎ン怪演は、本人のキャリアが心配になるほど突き抜けたもので、観る者の心に強烈なインパクトを残した。
ただ、すべてにおいて完璧な映画というわけではなかった。
日本映画の常である、慢性的な予算不足からかちょっとしたところに粗が見えていた。(牛のシーンはちょっとじゃないかもしれないけど…)
でもそれでも宇多丸は、「日本映画でもここまでできるんだ」ということを示したい、意思を持って、あえてこの作品を2010年の映画ランキング1位に据えた。そこには映画そのものを評価する以上の、メタ的な評価が加わってしまっていた。
それを良しとするかどうかは非常に難しい。
メタ要素というのは、私の大好きな小説の世界でもそうだが、ある程度場馴れした玄人が楽しめる要素であるということ。まだ入りたての人間にとっては、メタ的な観点でコンテンツに触れることはそもそもできないということ。
ここの点で私は翻弄された節がある。
最初にも書いた通り、私は自分で脳みそを1ミリも使わずに宇多丸のおすすめを貪ってきた。「宇多丸のおすすめ」と書いてあればそれこそウンコでも食っていたかもしれない。まあ実際、私の中で『サイタマノラッパー』はウンコと同レベルのものだったのだが…。
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ハードル上げすぎ
私は映画ではないが、似たような経験をしたことがある。
なんかのテレビ番組で生パスタの特集がされていて、吉祥寺にある隠れ家的なお店が紹介されていた。
その当時私は生パスタに狂っていて、世界で一番美味い生パスタを求めて、日々お店を渡り歩いていた。生パスタ亡者だった。
そんな私にとって、番組のお店紹介はまさに天から垂らされた蜘蛛の糸である。仏の恵みだった。喜び勇んで糸に飛びついた。
その結果、どうだったかといえば、クソみたいな経験をすることになった。
かなり前に書いた記事だが、そのときの様子を記したものがあるので、興味があるという奇特な方はご覧あれ。文体が全然違うのでクソほど恥ずかしい。
どちらの私も他人の評価を鵜呑みにし、快楽を得られるものと完全に決めつけていた。思考停止とはこのことである。もっと言えば、「宇多丸がおすすめするぐらいだから」「テレビでやってるぐらいだから」といって、余計なハードルの上げ方もしていた。
こんな考えでいるから、ちょっとやそっとのものでは満足できないし、想像の範疇を超えるようなものにでも出会えない限り、満足することはないだろう。
神様ではない
でもこういうのって、私だけに限らずみんな経験があるんじゃないだろうか。
アマゾンの紹介レビューでだって、「高評価だったから買ったのに全然期待外れだった!」みたいな怒りのコメントが溢れている。
勝手に期待していたのはお前だろ、という話だし、びっくりするぐらい良いものが来ると信じ切っているからこそ裏切られるのだ。一体何様だというのだ。お客様か。その通りだ。でもお客様は神様ではないのだ。
作り手がどれだけ精一杯やろうとも、受け取る側が満足するかどうかは分からない。受け手の満足を作り手がコントロールすることは不可能だ。作り手はただ自分たちにできる限りをやるだけ。作り手の文字通りその手を離れた瞬間から、すべては受け手に委ねられる。
だからどれだけクソみたいなコンテンツに、料理に出会ったとしても、一方的に作り手を責めるべきではないのだ。どれだけ低評価だったとしても、そもそもあなたが受け取らなければその低評価でさえ生まれなかったのだから。
ただし、これはあくまでも作り手が精一杯やっていることが前提になっている。
私に最高に不快な体験をさせてくれたあのパスタ屋は確実に舐めた仕事をしていたので、その限りではない。ファックである。
以上。