前の装丁の方が好きだったんだけど、時代に合わせるとこんな感じなのか。
冷静に紹介できません
どうも、読書ブロガーのひろたつです。今回は個人的に大好きで大好きで仕方がない作品の紹介。好きすぎてまともに紹介できる気がしない…。
……を再装填せよ コアを再装填せよ コアを再装填せよ
下駄箱に入っていた手紙に書かれたその無数の文字を視(み)た瞬間、“普通の高校生”工藤兵吾は知ってしまう。今いる世界が“作られた世界”であることを。自らが人類史上始まって以来といっていいほどの“戦闘の天才”であることを。そして、超光速機動戦闘機「夜を視るもの(ナイトウォッチ)」を駆り、虚空牙と呼ばれる人類の“敵”と闘う運命にあることを――!
上遠野浩平が描く青春SFの金字塔、“ナイトウォッチ”シリーズ第一弾。
前もって言っておきたいのだが、私は極度の上遠野浩平ファンである。信者と言い換えられても何の抵抗もない。それくらい大好きだ。だから彼の作品を読書ブロガーとして、浩平に…おっと間違えた、公平に評価することは不可能である。断言しよう。
個人的なツボを抑えられまくっているのもそうだが、上遠野浩平に出会った時期が悪かった。高校時代である。思春期ど真ん中、思いっきり感化されやすい時期に出会ってしまったので、完全に染まってしまった。
なので今回の記事でどれほど的確に作品を褒め称えることができるかは、まったく分からない。というかもうこの時点ですでに褒め称えることが前提になっているぐらい見境がない状態になっている。ぜひとも覚悟して欲しい。
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セカイ系のハシリ
「セカイ系」という言葉が今でも使われているのか不明だが、上遠野浩平作品を昇華うする上で外せない言葉だ。
「セカイ系」を知らない人はセカイ系のwikiを一度見て欲しい。たぶん、全然分からないと思う。
簡単に説明すると、自分と世界の終わりが直結している物語のことを指す。
ただ、それだけの説明だとハリウッド映画の9割がセカイ系になってしまうので、もう少し補足を加える。
セカイ系の場合、ハリウッド作品と違い主人公はただの人であること多い。これはサブカルチャーに傾倒するような少年少女を対象にした作品ゆえの特徴かもしれない。エヴァンゲリオンがセカイ系最初の作品と言われているのだが、碇シンジのイメージを貰えればそんなに大きくは外れないだろう。あぁそうか、「エヴァンゲリオンみたいなやつ」でいいのか、セカイ系の説明は。まあロボットが出てくるかどうかは別だけど。
で、上遠野浩平もセカイ系を描く作家である。というかむしろセカイ系を世の中に広めてきた先駆者的存在なのだ。
上遠野浩平が『ブギーポップは笑わない』で衝撃的なデビューを果たし、全国のライトノベルファンである少年少女はそのセカイ観にヤラれてしまった。私のその内のひとりである。
ちなみに超売れっ子作家の西尾維新は、上遠野浩平に影響されて作家になったと公言している。
上遠野浩平といえば…
上遠野浩平といえば代表作として挙げられるのは『ブギーポップシリーズ』である。謎の実写映画化までされたライトノベルである。(ちなみにホラー映画)
ブギーポップシリーズで一躍有名になった上遠野浩平だが、すぐに違うシリーズや作品を執筆するようになる。
そんなときに彼の手から創造されたのが、今回紹介する『ぼくらは虚空に夜を視る』である。
ブギーポップシリーズの面白さは疑いようがないし、私自身、ブギーポップから上遠野浩平信者になったクチである。
だが、あえて言おう。
上遠野浩平の最高傑作は『ぼくら虚空に夜を視る』である、と。
他の作家からナメられていた?
『ぼくらは虚空に夜を視る』はゴリゴリのSFである。しかしながら、発表当時はかなりナメた評価をされていたらしい。「ライトノベル作家にまともなSFなんて書けるのかよ」といったような。誰が言ったんだか知らんが。
SF界(そんなものがあるのか)は割りと閉鎖的な部分があって、つまりこれはマニアックであることとも同義になるのだが、慣例を重んじるような風潮がある。分かる人にだけ分かればいい、的な。
なのでSFの新人には基本的に冷たくて、新人をいびるなんてのはSF界ではよく見かける光景だった。
で、そんな閉鎖的な場所に殴り込みをかけた(かけてない)上遠野浩平。ナメられがちなライトノベル作家がゴッリゴリのSF作品をぶっこんできたわけだ。
そして予想を遥かに上回る作品の質に驚かれたという。
曰く「こんなにちゃんとしたSFを書くとは思わなかった」
いやー、完全にナメられてたね。そんでギャフンと言わせたね。誰に言わせたのか知らないけど。
設定のチラリズム
作品の外堀だけでも永遠に語ってしまいそうなので、そろそろ作品の中身に話を移そう。あまりにも私的な記事になりすぎている。
さて『ぼくらは虚空に夜を視る』だが、何が一番の魅力かと言えば、
「設定のチラリズム」
である。
これが最高すぎて思わず記事のタイトルにまで入れてしまったわけなのだが、きっと多くの方には伝わらないことだろう。
以下に詳しく説明していく。
作品間のリンク
上遠野浩平は非常に多作でこれまでに優に60冊ぐらいの作品を上梓しているが、そのどれもが作品間でリンクしているという変態的な特徴がある。全部だよ、全部。
なので上遠野浩平ファンは他の作品とのリンクに気付いただけで(そう、さりげなく配置されているのだ)大興奮。昇天できるのだ。
それだけ作品間にリンクを用意できるのも、ひとえに上遠野浩平の恐ろしいまでの設定作りの細かさによる。
ひとつの作品内だけでなく、その物語が進行している世界、またはその世界と同時に存在している異世界、はたまたその未来や過去などなど、狂ったように設定が張り巡らされている。
評論家であり哲学者の東浩紀は、上遠野浩平のこの壮大な世界観を総括して「上遠野サーガ」と呼んでいる。まさにそんなイメージである。
何かある。だけどそれが見えない
『ぼくらは虚空に夜を視る』には絶対的な敵として“虚空牙(こくうが)”という存在が配置されている。
その正体はまったくの不明で、何の目的で地球人を襲うのか、どこからやってくるのかも分からない存在である。
しかし物語の中で、触れるか触れないかぐらいのすれすれのラインで、虚空牙や世界の真相らしきものの存在を見せてくる。焦らしてくるのだ。
読みながら上遠野浩平の声が聞こえてくるようである。「真相はあるけど、教えないよ」と。
作品を読んでいる読者としては、「何かが確実にある。手応えも感じる。だけどそれが何かまでは見えない…!」という非常に歯がゆい状態になる。
これだけ読むとまるで「不愉快な作品」みたいな印象を受けるかもしれないが、まったくもって逆である。
この「歯がゆさ」「焦らし」が、つまり物語への手の届かなさが物語自身の最高のスパイスになっているのだ。
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見せない、という面白さ
人間には焦らされることで興奮する不思議な特徴がある。「どうなってるの?どうなってるの?」とのめり込んでしまうのだ。
あまりやりすぎると不快感へと転じてしまうのだが、使いようによっては人を狂わせることができる蠱惑的なテクニックだ。男性諸君であれば同意いただけるだろう。
このテクニックには他にも効果がある。
私が以前より提唱している「名作は余白の使い方が上手い」という説がある。
物語とは何かを語ることだが、語りすぎるのもよくなくて、ある程度読者に想像の余地を残すことが非常に重要であると、これまで腐るほど小説を読んできた私は実感として持っている。
上遠野作品に見られる“設定のチラリズム”はまさにその典型で、見えそうで見えないからこそ読者なりの想像で作品を補う。そして読者なりの物語がそこに創造される。これが面白くないはずがないのだ。
神の存在
また『ぼくらは虚空に夜を視る』では、後半で人類を越えたような存在との対話するシーンがある。意味深な言葉の連続で、読者の頭の中にも主人公の頭の中にも「?」が溢れてしまう。
だがそれでも私はこのシーンが大好物で、何度も何度も読み返し、そのたびに萌えている。妙な魅力がそこにはあって、あの興奮を的確に表現する言葉を私は持ち合わせていない。とにかく、萌える。
人類を越えた存在が一体何なのかは物語の中で直接は触れられないのだが、まあ神に近しい存在なのだろうと私は勝手に想像(補強)している。
これも上遠野浩平が仕掛ける設定チラリズムだ。見せるけど見せない。見せないけど見せる。
いい年したおっさんのくせにこっちの感情を上手いこと弄びやがって。くそっ、最高だよ上遠野浩平。大好きだ。私からすればあんたが神だ。
何一つ説明してない気もするが…
勢いに任せて気持ち悪すぎる文章を綴ってきたが、冷静に見返してみるとなかなか酷い有様である。この記事を読まれた方が不快にならないか心配でならないが、それでも公開に踏み切らせてもらう。得てして他人の興奮は気持ちが悪いものなのだ。興奮しても許されるのは美女だけである。
それにしても、よくもまあこれだけ作品の中身に触れずにズラズラと駄文を書き連ねられたもんだ。自分で自分に感心してしまう。
一応、この記事の主旨は「面白い本の紹介」なのだが、その役目はまったく果たせそうにない。まあ全然気にしてないけど。
あえて言葉を付け足すとするならば、これだけこの作品に狂わされた人がいるってことは、それだけの力を持った作品だということだ。
作品の力というのは、現実世界への影響力のことだ。
私は間違いなく『ぼくらは虚空に夜を視る』に影響を受けている。
そして、今もまだこの作品で受けた“最高の興奮”を追い求め続けている。
きっとそれは手に入らないものなのだろうけど。
以上。
やっぱりこっちの装丁の方が好きだなぁ。